第1話 母を偲ぶ日(上)

作者:EDA

「あ、あすたちゃん!」という元気いっぱいの声が、突如として響きわたった。
 家の近所の、スーパーにおいてのことである。食品売り場で商品を物色していた俺は、顔をしかめてそちらを振り返ることになった。

「あのな、人の名前を大声で呼びつけるなよ。少しは場所をわきまえろ」

「あははー、ごめんごめん! あすたちゃんは、こんなところで何をやってるの?」

 カートを押しながら速足で近づいてきた玲奈(れいな)が、笑顔で俺の手もとを覗き込んでくる。
 玲奈は、俺の幼馴染である。その屈託のない笑顔を見返しながら、俺は肩をすくめてみせた。

「見ての通り、買い物をしてるんだよ。他に何をやってるように見えるってんだ?」

「だから、何を買ってるのかって聞いてるんだよ! 食材はいっつも業者さんからまとめ買いしてるんでしょ?」

「オリーブオイルを切らしちまったから、買いに来たんだよ。こいつはたまにしか使わないから、ついつい在庫を切らしちまうんだよな」

 俺の家は、《つるみ屋》という大衆食堂をやっている。メインは和食と洋食であり、ときおり中華やイタリア風の料理などが日替わり定食でお披露目される。オリーブオイルなどというものは、そのイタリア料理ぐらいでしか使われる機会がなかったのだった。

「ふーん。それじゃあ今日は、イタリアンなの?」

「うん、まあ、あくまでイタリア風な。俺なんて、イタリア料理の何たるかも把握しきれてないし」

「またまた、ご謙遜! いつだったかに食べさせてもらったスパゲッチーは、なかなかの絶品だったよ!」

「それはまあ、元の腕がいいからな」

 幼馴染ならではの、気安い会話である。俺たちは、生まれる前から母親同士が知り合いであったという、筋金入りの幼馴染であったのだ。

 ともあれ、俺の用事はこのオリーブオイルのみである。目当ての品を商品棚から取り上げた俺は、お返しに玲奈のカートを覗き込んでやった。

「そっちはずいぶん大量だな。それで四人分なのか?」

「うん。一から買いそろえたら、こんなもんだよ。今日も美味しいデザートを食べさせてあげるからね!」

 本当に、同い年とは思えないほどの無邪気な笑顔であった。
 今日みたいな日は、その笑顔が痛いぐらいにしみわたってくる。俺たちにとって、今日は年に一度の特別な日であるのだ。

「きっと母さんも喜ぶよ。それじゃあ、会計を済ましちまうか」

「あ、あたしはまだ買い物の途中なの。先に行っててもいいけど、出口のとこで待っててね?」

「何でだよ。さては、荷物運びをさせる気だな」

「あはは、その発想はなかった! 墓穴を掘ったね、あすたちゃん! それじゃあ、また後で!」

 野ウサギのようなせわしなさで、玲奈が通路の向こうに消えていく。
 俺は溜息をこらえながら、一人でレジのほうに足を向けた。

 今日ばかりは、玲奈をないがしろにすることもできないだろう。
 母の日を目前に控えた五月の今日は、俺の母親の命日であった。
 俺と親父は、毎年この日は母さんのために料理を作ることに決めている。中学に入ったあたりから、玲奈もそこに加わって、食後のデザートをこしらえてくれるようになったのだ。

 母さんも玲奈のことは実の娘のように可愛がっていたので、きっと喜んでくれていることだろう。
 それを思えば、玲奈の荷物運びを肩代わりすることなど、何ほどのことでもないはずであった。

                  ◇

 無事に買い物を終えた後、俺たちは夕暮れ時の迫ってきた遊歩道を二人で歩いていた。
 玲奈が買い込んできた食材は、半分だけ俺に手渡されている。牛乳やら卵やら小麦粉やら、それなりのボリュームではあったものの、まあ苦になるほどの重量ではなかった。

「なんか、あっという間にゴールデンウィークも終わっちゃったね! まだちょっぴり休みボケしてる感じだよー」

 俺の隣をちょこちょこと歩きながら、玲奈がそのように述べていた。
 俺も玲奈も十六歳の高校二年生であったが、あちらは中三ぐらいでぴたりと成長が止まってしまい、ほとんど頭ひとつ分ぐらいも小柄であった。

「最近、学校はどんな感じ? クラス替えして、新しい友達はできたかな?」

「そりゃまあ、一ヶ月も経てばそれなりにな。前にも同じクラスだったやつが何人かいたことだし」

「そっかそっか。ま、あすたちゃんは人当たりがいいけど、頑固で融通のきかないところもあるもんねー」

「……おい、たぶんだけど、言葉の順番を間違えてるぞ」

「あ、そうか! せっかくほめようと思ってたのに、台無しだ!」

 これも幼馴染の気安さの範疇である。
 俺はこれまで通りの習わしにのっとって、玲奈の頭を軽く小突いてやった。

 それこそ高校のクラスメートにでも見られてしまったら非常に誤解を招いてしまいそうなところであるが、これが俺たちの平常運転であるのだ。
 俺たちがおたがいに抱いているのは、恋愛感情ではなく家族愛の類いであった。余所の家ではどうだか知らぬが、おむつをしていた頃から顔を突き合わせている相手に艶っぽい感情を抱くというのは、はなはだ難しいものであるのだ。

 しかしまた、そういうフィルターを外してみれば、きっとこの玲奈も魅力的な女の子なのだろうと思う。
 年齢よりも幼く見えて、言動もなかなかにけたたましいものの、その面立ちは小動物のように愛くるしい。長袖のTシャツにキュロットスカートというシンプルな装いでも、どこか垢抜けて感じられる。それに何より、人柄の良さが表情に表れているのだろう。自分にとっては恋愛の対象外でも、こんなに魅力的な女の子はそうそういないのではないかと思えてならなかった。

「……お前さ、そろそろ浮いた話とか出てこないのか?」

「んー? 鳥人間コンテストとか、スカイダイビングとか?」

「そんなもんにチャレンジしたいなら好きにすりゃいいけど、そうじゃないだろ」

「だって、うちは女子校だからなー。可能性があるとしたら、乙女同士の禁断の恋ぐらいかしら」

「おお、それもなかなか楽しそうだな」

 今度は、俺が頭を小突かれることになった。

「あたしはまだまだ発展途上だからねー。恋人作りなんてのは、高校生活でしっかり自分を磨いてからチャレンジすることにするよ」

「そうか。ずいぶんのんびりしてるんだな」

「あたしなんかより、あすたちゃんは? 学校で可愛いコでも見つけたの?」

 玲奈のくりくりとした瞳が、並々ならぬ好奇心をたたえて俺を見つめてくる。
 これは、藪ヘビであったかもしれない。

「可愛い娘さんがいたとしても、交流を深めるチャンスもないからな。こちとら、放課後も土日も店の手伝いだしさ」

「それは別に強制じゃないじゃん。おじさんは、もっとアルバイトさんを増やしてもいいって言ってくれてるんだからさ」

 それは確かに、事実である。
 しかし俺としては、若い内にもっとたくさんの調理技術を身につけておきたいのだ。本音を言えば、高校など行かずにずっと《つるみ屋》で働いていたいぐらいであったのだった。

「うーん、あすたちゃんって、けっこうモテると思うんだけどなー。顔立ちなんかは可愛らしいけど、学校の成績や運動神経なんかはイマイチだし」

「……ツッコまないからな」

「男らしいところもいっぱいあるけど、腕力がそれに追いついてないしね!」

「ツッコまないって言ってんだろ!」

 玲奈は「あはは」と楽しそうに笑っていた。
 俺はその頭を小突く気力もわかずに、溜息をつく。

「何にせよ、あすたちゃんに可愛い恋人ができる日を待ってるよ! あたし的には、自分のことよりそっちのほうが楽しみなぐらいだからさー」

「何でだよ。別にお前は得しないだろ」

「損得の話じゃないってば。あたしはあすたちゃんに幸せになってほしいだけだよ」

 そんな風に言いながら、玲奈はにこりと微笑んだ。
 普段は子供じみているくせに、こいつはときどき妙にお姉さんぶったことを言うのである。

「そして幼馴染の特権として、あすたちゃんの恋人ちゃんにあることないこと言いふらす! それが一番の楽しみであるのだ!」

「いい加減にしろ」

 俺は気力を振り絞って、玲奈の頭を小突いてやった。
 そうして阿呆などつき漫才が無事に終了を迎えたところで、《つるみ屋》に到着する。

「おーい、帰ったぞー」

 母さんの命日は、いつも臨時休業だ。のれんの仕舞われた入り口をくぐって呼びかけると、遠くのほうから「おー」という気のない声が返ってきた。
 とりあえず荷物は客席のテーブルに置いて、店の奥へと歩を進める。

 衣紋掛けで隠された戸を開き、自宅の居間を覗き込んでも、親父の姿はない。ただ、さらにその奥にある障子戸が開き放しで、縁側に黒い影が落ちているのが見える。

 玲奈と二人でそちらに近づいていくと、親父は縁側でお茶などをすすっていた。
 Tシャツにジャージというくつろいだ姿で、頭には麦わら帽子をかぶっている。そして、縁側には土で汚れた軍手が放り出されていた。

「おじさん、こんにちは。お庭の草むしりをしてたの?」

 玲奈が尋ねると、親父は庭のほうに目を向けたまま、「ああ」とうなずいた。

「普段はなかなか手入れをする時間もねえからな。どうだい、さっぱりしただろう?」

「ほんとだね。すっごく綺麗だよ」

 玲奈は、目を細めて笑っていた。
 母さんが存命の頃、この庭にはちょっとした家庭菜園が造られていたのである。
 そしてその隙間をぬって、俺と玲奈が遊んでいた記憶がある。そんなとき、母さんはいつも縁側に座って、幸福そうに微笑みながら、俺たちの姿を見守ってくれていたのだった。

「……小学二年生だった明日太(あすた)と玲奈ちゃんも、もう高校二年生か。本当に、月日が過ぎるのはあっという間だなあ」

 普段は豪放な親父も、しみじみ息をついていた。
 だけどその横顔は、穏やかな微笑みをたたえている。
 いつからか、俺たちも笑顔で母さんのことを思い出せるようになっていたのだった。

「今日もみんなのために、美味しいお菓子を作ってあげるからね! お腹を空かせて待っててよ?」

 玲奈が明るい声で言うと、親父は「ああ」とようやくこちらを振り返った。

「俺はもう仕事を済ませてるから、調理場は好きに使ってくれ。明日太も、あんまりとんでもないもんを作るんじゃねえぞ?」

「わかってるよ」と答えながら、俺はきびすを返した。
「おじさん、また後でね」と、玲奈も後をついてくる。

 玲奈の表情は明るかったが、その大きな瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 きっと、昔のことをあれこれ思い出してしまったのだろう。
 こっそり目もとをぬぐってから、玲奈は俺の顔を見上げてきた。

「それじゃあ、始めよっか! あすたちゃんの料理も楽しみにしてるからね!」

「ああ、まかせとけ」

 俺は意味もなく玲奈の頭を小突いてみせた。
 玲奈も俺の頭を小突いてから、また楽しそうに笑い声をあげた。
 そうして今年も、俺たちは失ってしまった大事な相手のために、ありったけの腕をふるうことになったのだった。

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