第三話 キュレレ

作者:鏡 裕之

   1

 世界の(うれ)いも悲しみも吹き飛ばしてしまいそうな青空の中を、一匹のちびが飛んでいた。
 一匹?
 (いな)
 一人のおちびちゃんである。垂れ目の童顔に、長いツインテールがひらひらと舞っている。おちびちゃんは大事そうに本を抱えてゆっくりとソルム付近の上空を飛んでいた。
 ヴァンパイア族ゼルディス族()族長(ぞくちょう)の次女、キュレレである。
 キュレレにとっては、大冒険だった。昼間に飛ぶのは初めてである。それも一人でなんて……。
 自分がもっとちっこかった頃、人間に襲われたことがある。喉が乾いて村に降りて、井戸から水を飲んでいたら斧が飛んできたのだ。
 男は何やら叫んでいた。凄く憎悪に満ちた目で(にら)んでいた。
 涙目で逃げた。
 あとで父親がその村に仕返しをしてきてくれたらしい。でも、それから人間が怖くなった。また襲ってくるかも……と思うと、外に出られなくなってしまった。
 今でも、あの人間の目は忘れられない。時々夢にも出てきて、目が覚めてからパパのところに飛んでいく。
 でも――。
 エルフが来るのなんて、初めてだった。ソルム近郊にエルフが来るなんて、聞いたことがない。
 一度、エルフは自分たちを襲うの? と父親に聞いたことがある。
《エルフは名誉ある種族だ。我々ヴァンパイア族を襲うことはない。こちらからあからさまに命を狙うようなことをしなければ、牙は()かない。それに――》
 と父親は付け加えた。
《ここにはエルフはまず来ぬ。たぶん、永遠に来ぬ。このような(ひな)びた地に、エルフは来ぬ》
 エルフに会ったことがあるのか尋ねると、父親はあると答えた。
《森の中で水を飲んでいたら、エルフが白馬に跨がっていた。後ろには妻子らしい二人が、馬に乗っていた。わしを攻撃するのかと思ったら、『わたしも水を飲みたいのだが、よいかな?』と。これがエルフなのか、だから尊敬されているのかと思った》
 それを聞いて、エルフに会いたくなった。
 エルフの妻は、子供に本を読み聞かせていたという。あんなものを読ませて足しになるのかと尋ねると、この世界で生きるためには必要なことだ、あなたも機会があるならば、子供に本を読み聞かせるとよい、と答えたそうだ。
《我が種族でエルフのことをあまり悪く言う者はおらぬ。エルフに会った者は、皆、エルフは温和で親切だったと話しておる》
 そのエルフが――ソルム城に来ている。
 エルフはきっと優しい。
 そして、本が読める。本の読めないエルフなんか、いない。きっとキュレレが行けば、本を読んでくれるに違いない。
 遥か眼下に、緑色の麦畑とは明らかに色合いの違う、ソルムの町が近づいてきた。キュレレは緊張した。
 町には人間もいる。
 また襲う?
 わからない。
 でも、怖い。
 引き返す?
 キュレレはためらった。
(もう少し行ってから……)
 キュレレはソルムに近づいた。すでにソルムの通りは、人間や骸骨族やミイラ族が往来している。
 ソルム城は――。
 中庭に馬が見えた。耳の大きな男がそばに立っている。
(いた!)
 キュレレは感動した。
 本当にエルフだ!
 本当にエルフがいた! 耳がおっきい~♪
 でも、どうしよう。
 周りには人間がいる。怖い兵士がいっぱいいる。降りて、「読んで」とお願いするのは無理だ。
 どうしよう。
 せっかく本を読んでもらおうと思っていたのに。
 空をゆっくり旋回して隙を(うかが)っていると、若い男が姿を見せた。キュレレが見たことのない白い上着と紺色のズボンを身に着けている。
(あれがディフェレンテかな)
 お姉ちゃんを捕まえた、異世界の人間。でも、全然ソルムの人たちと変わらない。いったいどこが違うんだろう?
 不思議に思っていると、遅れて顔に変なものを着けた青年が姿を見せた。
 あれ、何だろう? とキュレレは思った。そうだ、きっと眼鏡だ。人間が着けている、へんてこなやつだ。
 その眼鏡の人間が持っているものを見て、キュレレは一瞬、本を落としそうになった。
 本だ!
 でも、この人間、耳は大きくない。
 この眼鏡の人も本を読むの?
 眼鏡人間はロバに乗った。本を(かばん)に詰める。
 どんな本だったんだろう。
 キュレレが持っているのと同じように、きれいな挿絵がいっぱいある?
 馬とロバが動きだした。エルフと青年たちは、城を出るらしい。城門をくぐって、広場に来た。町の人たちが興奮している。キュレレは遥か上空からゆっくりと追いかけていく。
 ついに、ソルムの市門を出た。
 やった! とキュレレは思った。これで人間がいなくなる。エルフに声を掛けられるかも……!
 だが、エルフとディフェレンテには、騎士がついている。
 護衛?
 いなくなればいいのに。護衛がいると、本を読んでってお願いできない。
 どうしよう……。
 キュレレは先回りして森の中に降りた。木に止まって、エルフたちが来るのを待つ。
 しばらくして、エルフたちがやってきた。先頭は骸骨族だ。その次が、エルフと青年。眼鏡人間はその後ろである。皆、キュレレには気づいていない。
「いつ着くんだ?」
 と眼鏡人間が尋ねる。
「夕方までには到着できるでしょう」
 とエルフが答える。
 この人、少し顔は厳しいけど、優しそう。本! と言ったら、読んでくれそう。でも、お願いする隙がない。
 眼鏡人間が鞄から本を取り出した。
 え?
 この眼鏡人間、ロバに乗りながら本を読むの?
 本を開いた。
「おまえ、ロバから落ちて怪我するぞ」
「退屈すぎる」
 と眼鏡人間が答える。
 この眼鏡人間、本が好きなんだ!
 頼んだら、読んでくれるのかな? エルフがだめだったら、眼鏡人間に頼む?
 やっぱりエルフ?
 眼鏡人間?
 キュレレは、樹上から眼鏡人間とエルフを追いかけた。どちらかに、本を読んでほしい。でも、隊列の前後には護衛の騎士がいる。一休みをして騎士から離れてくれたら、勇気を出してエルフの許に飛んでいって、本を読んでとお願いするのだが、エルフたちが休む気配はない。
 どうしよう。
 拱手傍観していると、隊列はキュレレの真下を通り、過ぎていった。どんどん姿が遠ざかっていく。
 あ。
 エルフが行っちゃう。
 眼鏡人間も行っちゃう。
 キュレレは少しの間、樹上で後ろ姿を追いかけていた。それから、軽く飛び立った。別の樹に舞い降りて、隊列が休むのを待つ。だが、隊列は一向に休もうとしない。小さな森をあっという間に抜けて、エルフたちは隣の町セルカに入ってしまった。

   2

 セルカに着くと、エルフはディフェレンテたちと別れて旅館に入ってしまった。そのうち出てくるかな、出てきたら追いかけていって、一人になったところで本を読んでもらおうかなと、キュレレは空の上で待っていたが、エルフは出てこなかった。
 空で待機しているうちに、だんだん疲れてきた。疲れてくると、キュレレは悲しくなった。
 せっかくエルフに本を読んでもらおうと思ったのに。ただ疲れただけで、本を読んでもらえていない。
 がんばって出てきたのに。
 とってもがんばったのに。
 涙が込み上げてきた。
 何のために、こんなに遠くまで来たのだろう。
 パパ。
 お姉ちゃん。
 泣きそうになりながら、キュレレは近くの森に戻った。樹に止まって、本を抱えて、目元を拭った。もう大泣きしそうである。
「な~にやってんだ?」
 覚えのある声に、キュレレは驚いて振り返った。背の高い、巨乳のヴァンパイア族の女性が、近くの枝に止まって自分を覗き込んでいた。
「お姉ちゃん……」
 キュレレは半べそを掻きながら、姉に抱きついた。お姉ちゃんが髪の毛を撫でてくれる。
「何を泣いてんだよ。わたしの妹だろ?」
「本……」
「おまえ、エルフに本を読んでもらおうと思って出てきたんだろ」
 姉に指摘されて、キュレレは半べそでうなずいた。
「エルフ、いなくなったんだろ」
「本……」
 姉に会えた安心感から、とうとう涙がこほれる。
「泣くな、まったく」
 と姉が頭を撫でた。だが、泣くなと言われると、泣いてしまうのが妹である。
「お姉ちゃんが、ヒロトに本を読むように頼んでやろうか? きっとヒロトなら読んでくれるぞ」
 と姉が思いがけないことを言ってくれた。
 ヒロト?
 あのディフェレンテの人?
 眼鏡人間が思い浮かんだ。
 ディフェレンテより、眼鏡の人の方がいい。眼鏡の人の方が読んでくれるかもしれない。
「眼鏡人間」
 とキュレレは答えた。
「眼鏡人間? なんだ、それ?」
 と姉が素っ頓狂な声を上げる。
「眼鏡」
「ああ、相一郎のことか」
 と姉が得心した。
「あいつかぁ……。お姉ちゃん、あいつは苦手だなあ……。お姉ちゃんにゲロ吐きかけたからなあ……」
 と姉が渋い表情を浮かべる。
 ゲロ?
 あの眼鏡人間、本を読みながらゲロを吐く?
 キュレレは想像してみた。
 本を読みながら、そんな恐ろしいことをするのだろうか? 眼鏡人間は本当は怖い? あまりそんな感じはしなかったが……。
 ゲロを吐かないのなら、本は読んでほしい。せっかくこんなに遠くまで来たのだ。
「お姉ちゃん、これからヒロトに会いに行くんだ。いっしょに来るか?」
 キュレレはうなずいた。
 一人でお家まで戻るのはつらい。それに、お姉ちゃんがいるのなら、眼鏡人間も本を読んでくれるかもしれない。ディフェレンテは……お姉ちゃんが頼んだら、本当に読んでくれるだろうか?
「じゃあ、泣いてないで、笑え。キュレレはお姉ちゃんと同じで美人になるんだからな」
 キュレレはうなずいた。
 あまり本を読んでくれないけど、お姉ちゃんは優しい。キュレレが人間に斧を投げつけられた時も、近くにいたのはお姉ちゃんだった。お姉ちゃんは怒って、男に突進してくれたのだ。そのあと、お姉ちゃんから話を聞いたパパが怒って、村を襲撃した。
「行くぞ」
 と姉が微笑みかけた。
「本、落とすなよ」
 キュレレは大きくうなずいた。

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