伊丹の家は萌子のアパートから電車で一時間ほどの高級住宅街にあった。
建物は豪華な純和風の二階建ての屋敷で、江戸時代辺りに建てられていそうな門、木目が綺麗な壁、庭にはいくつもの松や巨大な鯉が泳ぐ池などがあった。
伊丹は門の鍵を外して俺を抱きかかえて家の中へと入っていく。
「……随分、静かポニ」
伊丹が壁のスイッチを押して明かりをつける。家の中は廊下ですら広く、壁の至るところに絵画や壷があった。
「この家にはボクともう一人しか住んでいないからね」
「親ポニか?」
「違う。メイドさんだ。親は二人とも大学の教授で滅多に帰ってこないんだよ。姉も今は部活の遠征中だからね」
「そうポニか」
悪いことを聞いてしまった。
「そう暗い顔をするな。ボクはもう慣れたよ」
「でも、両親と暮らせないなんてやっぱり悲しいポニ」
俺の言葉に伊丹は意外そうにきょとんとした顔を見せる。
「……ふむ。君は優しいな」
伊丹が俺の耳に触れる。
「いや、触るなポニ」
その時、奥で誰かが廊下を踏んだような音が聞こえた。どうやら、俺と伊丹の会話に気づいたらしい。
「少し状況を説明するから待っていてくれ。いきなり君を連れて行ってもビックリするからね」
「状況説明って。俺のことも話すのポニか?」
出来ることなら、俺のことは秘密にしてほしいが。
「大丈夫だ。彼女は信用できる」
「……さっき言っていたメイドさんポニか?」
「ああ。これから、ここを拠点にするんだ。何かあった時、ボクだけでは対処できないかもしれないからね」
それもそうか。
「少し待っていてくれ」
伊丹がそう言うと、廊下の奥へと進んでいく。
今回の魔法少女はすごいしっかりしているな。
前の萌子に比べると雲泥の差だ。
懐かしい。
萌子は同じ局内にいる俳優の男の子と挨拶するだけでも俺に色々と相談してきたものだ。
それは十二年以上前のことだ。
同じ局内の子役に一目惚れした萌子はただおはようの挨拶をするだけでも緊張に体を強張らせていた。
「あのね。あいさつってどうすればいいのかな? もし、嫌われたらどうしよう。ね。どうしたらいいかな」
そんな風によく聞かれたっけ。結局はその子役とは上手くいったのだが。
……そうだ。あの子役とはどうなったんだ?
彼に聞けば何かわかるかもしれない。
心当たりに希望が膨らむ。
「ワトソン。状況は説明したのだが、やはり、魔法という存在を信じてくれていない。ちょっと来て説明してくれないか?」
伊丹がやってきて、俺を抱き上げる。
「こら! ワトソン言うなポニ! あと年上を無下に扱うなポニ!」
「細かいな。いいから、来てくれ。彼女がお待ちかねだ」
「……ところで、そのメイドさんは美人さんポニ?」
「ああ、もちろん。とっても綺麗な人だよ。確か、今年で十七だ」
「おおお! 人間界のメイドって生で初めて見るポニ! 魔法少女もそれはそれでいいが、やはり、メイドも良いポニ。魔法少女とは違い、年齢はピンからキリまであるところが世代の差を――」
「そんなことはどうでもいいだろ」
冷めた目の伊丹に俺は言葉を詰まらせる。
「……う、はいポニ」
廊下の奥には畳が敷かれた応接間があった。
部屋は広く、およそ二十畳はあるだろう。壁には流麗な線で描かれた水墨画。中央に置かれた足の低いテーブルはどこか気品が漂っている。
そして、何よりも目立つのが、テーブルの前で座っているゴリラ。なんでこんな場所にゴリラの着ぐるみが置かれているのだろうか。
「それで、どこポニ? そのメイドさんはポニ?」
俺の言葉に伊丹が訝しげな目を向ける。
「すぐそこにいるじゃないか」
すぐそこ?
辺りを見回すが――。
「……ウホ」
ゴリラしかいない。
「って、今、そこのゴリラの置物、喋んなかったポニ!?」
「何を言っているんだい?」
「だ、だよなポニ。気のせいポニか」
俺はゴリラの腕に触れる。
それにしてもすごい出来のゴリラの着ぐるみだ。毛はゴワゴワしてて筋肉もボリュームがあり、弾力もある。それに温かい。まるで、本物の――。
「本物かポニ!?」
「我が家のメイド。ゴリ子さんだ。彼女はこう見えてもかなり優秀だ。ボクも彼女がいるから安心して家を任せられる。ゴリ子さん。彼は渡瀬翼。ボクの相棒のワトソンさ。マスコット界という魔法が使える世界の出身らしい」
「こいつゴリラポニ! メイドじゃないポニ! あとワトソンじゃなくて、せめてマスコット名のぽにたんって呼んでくれポニ!」
「いいじゃないか。ワトソンで。あと失礼だよ。立派なメイドじゃないか」
「ウホウホウッホ!(きゃー! 可愛い!)」
ゴリラが胸を叩いて、ドラミングする。
「おい! 威嚇してるポニ!」
「ああ、それはお気に入りの人間にしかしない行動だ。どうやら、見た目はぬいぐるみの君を見て、大変気に入ったようだ」
「うれしくないポニ!」
「ウホウホウッホ!(お嬢様。すみません。私……お嬢様の言葉を疑っていました)」
「気にすることは無い。最初、ボクもどこかで遠隔操作でもしているんじゃないかと疑ったくらいだ。しかし、どう見ても遠隔操作だけでは納得できない部分が多すぎる。まだ多少は幻覚ではないかと疑っているが、ここは魔法という言葉で一応の納得はしておこう」
「なんで普通に会話できるんだポニ?」
「何を言っているんだ? 当然だろう」
「当然!? そうなのかポニ!?」
人間界は複雑だ。
「ウホウホウホ(あれ、この子……)」
突然、ゴリラが俺の頭を無造作に掴む。
「いだだだだ!」
物凄い握力に頭が潰されそうだ。
「おい、このゴリラは俺を圧殺しようとしてるポニ!」
「ゴリ子さん。あんまりやると中身が出てしまうぞ。……やはり、中身は内臓なのか?」
「ちゃんと内臓が入ってるポニ!」
「ウホウホウッホ!(すっごく臭いですわ! お嬢様! これはすぐに滅菌処理しないと!)」
「……ああ、確かに」
ゴリラの言葉に伊丹が顎に手を当てて、納得する。
「何勝手に納得してるんだポニ!」
「いや、どうやら、君がやたらと臭うのが嫌らしい。ボクは耳さえ触れれば、あまり気にしていなかったが」
「そういえば、風呂なんて一週間入ってないポニ」
「ウホウホ!(きゃー! 許せませんわ!)」
「ぐえええええ」
ゴリラが俺の体を雑巾のように引き絞る。
このゴリラ! 俺を殺そうとしていないか!?
「とりあえず、洗濯機に入れるか」
伊丹が雑巾のように捻られている俺を奪うように掴む。
死ぬかと思ったポニ!
「ドラム式の洗濯機で大丈夫かい?」
伊丹が俺を掴んで屋敷の奥に向かう。やがて、洗面所らしき場所にたどり着くと洗濯機の蓋を開けて中に俺を突っ込む。
「嫌ポニ! 普通に死ぬポニ!」
慌てて俺は洗濯機から這い出る。
「ぬいぐるみ扱いするなポニ! 風呂が良いポニ!」
「それなら、丁度いい。ボクが君を風呂に入れるとしよう」
伊丹は服を脱いでTシャツ一枚になる。
「い、いやだポニー! 入るなら一人で入るポニ!」
「いいから、とっとと入ってしまおう。今後の方針について、話したいことは山ほどある」
俺は必死に抗うが伊丹に軽々と持ち上げられて風呂場へと連れて行かれる。
「ぎゃあああああ!」
○
年端もいかぬ少女に全身を弄られるという地獄のような風呂場からなんとか逃げ出して居間へと辿り着く。体中から石鹸の匂いが漂っている。
「う、うぅ」
自尊心が全て奪われた感覚だ。
伊丹は俺を洗った後、そのまま風呂に入るらしく、俺は慌てて逃げてきた。
「ウホウホウホ(お疲れ様です。翼様)」
「……ゴリラ」
「ウホ(ゴリ子ですわ)」
ゴリラが心なしか、瞳を輝かせて嬉しそうな表情をする。
「ウホウホ(でも、よかったですわ。あんなに嬉しそうなお嬢様を見るのは初めてですわ)」
「……そうかポニ」
とりあえず、俺はゴリラの言葉に頷く。
「ウホウホウッホ(お嬢様は浮世離れした性格ですので、ご学友がなかなかできず、本人もコミュニケーションをあまり必要と感じておりませんでした。結果、お嬢様はずっと一人で本と事件ばかりを追っていました。子供であることから、誰にも認められずにいながらも)」
ゴリラが顔を上げる。ゴリラの顔にはとびっきりの笑顔があった。
「ウホウホウッホ!(だから、お嬢様をお願いします)」
ゴリラが頭を下げるが――。
「重要なこと喋ってるつもりだと思うのに、何を言っているのかさっぱりわからないポニ!」
なぜかゴリラが落胆して、睨みつける。
……悪いことは何もしていないのに、なぜだ。
「ああ、こんなところにいたのか」
ピンク色のフリフリが付いたパジャマを着た伊丹がバスタオルで濡れた髪を拭きながらやってくる。
「……随分、可愛らしいパジャマポニね」
伊丹のことだからTシャツ一枚だけとかだと思っていた。
「ボクも女の子だからね。そんなことよりも、これからの事について話したいのだが」
伊丹がチラリとゴリラを見る。
「ウホウホウッホ(わかりました。では、お嬢様。お先に失礼します)」
「すまない」
ゴリラが一礼して去っていく。
「ワシントン条約はどこにいったんだろうポニ」
「なんでそこでワシントン条約が出てくるのだ?」
……わからないならいい。
「それにしても、もう橘萌子のアパートには行けないだろうね。困ったよ。あの部屋には驚くほど何もなかった。まるで自殺を決意した人間のようだ。アパートは数少ない彼女の手がかりだったのに。……ワトソン。何か彼女について、手がかりはないか? こうなってくると、君の思い出だけが手がかりだ」
「ワトソンじゃないポニ。……それなんだけど、一人だけ、気になる人物がいるんだポニ。当時、萌子と付き合っていた俳優ポニ。名前は――」
「――宮本勇だな」
「なんだ。知ってたポニか」
「ああ、一応、ボクのネットワークにも入ってきたからな。何か知っているのではないかと思って真っ先に調べたのだが」
伊丹が言葉を濁す。
「何か……あったポニか?」
「宮本勇なんだが、彼は既に死んでいる。それも、萌子が死んだ数時間前、午前一時頃に成王子ドーム近くの場所で鋭利な刃物で心臓を一突きらしい」
一瞬、言葉が出なかった。
「宮本勇を殺した人物と橘萌子を殺した人物は別だろう。『鋭利な刃物で一突き』、『判別不能になるまでバラバラ』殺し方に差があるからね」
夜は更けていく。俺が人間界に戻って最初の夜はこうして終わりを告げた。
《つづく》
◆◆◆次回更新は3月24日(火)予定です◆◆◆