第2編 『ルース&早苗・イン・ワンダーランド』 シーン01

作者:健速

シーン01 : ルースと白うさぎ


 それはよく晴れて気持ちがいい、秋の日の午後の事だった。
ルースが買い物を終えて一〇六号室へ戻ってくると、部屋の真ん中で孝太郎(こうたろう)が大の字になって眠っていた。
この日は土曜日で高校は休み。孝太郎は朝からアルバイトへ出掛けていて、ついさっき帰ってきたばかり。
シャワーを浴びてリラックスしたところに、秋のぽかぽかした日差しが窓から降り注ぎ、眠気を誘われた孝太郎は昼寝を始めたのだった。

「ふふっ、おやかたさまったら………」

 ルースは買い物袋を台所に置くと六畳間へ入っていく。
そして押入れからタオルケットを引っ張り出すと、孝太郎の身体にかけてやった。
そうしている間中、ルースの瞳は優しく穏やかで、生まれついての心優しい性格がよく表れている。
眠る孝太郎と同じく彼女も無防備だった。

「へぷしっ」

 ルースがタオルケットをかける時に軽く鼻先を掠めたせいで、孝太郎はくすぐったくなって小さくくしゃみをした。
それで孝太郎が目覚める事はなかったが、その動きのせいで胸のあたりのタオルケットがめくれる。

「もう………ふふふ………」

 小さく笑いながらルースは孝太郎のすぐ傍に座り、両手を伸ばして乱れたタオルケットを元に戻した。

「あっ………」

 覆い被さるようにして胸のあたりのタオルケットを弄っていたので、ルースは孝太郎の胸に両手を添えて、
まるでキスでもしようとしているかのような姿になっていた。
その事に気付いた彼女は、顔を赤くしてそのまま動きを止めた。

 ―――ええと、これは………そのぉ、意図的という訳ではなくて………。

 ルースは頭の中で必死に言い訳を始めた。やろうとしてやった訳ではないのだが、
貞操観念の強いルースにはこれはいささかはしたない行動に思える。
彼女にとって、腕を組んで歩いたりするのとは、次元が違う重みがあったのだ。

だが恥ずかしい反面、本当に大好きな相手なので止めたいという訳でもない。
ルースはずっとこの距離で向かい合っていたかったし、できれば物理的な距離をもっと詰めたかった。
それは丁度、ルースと孝太郎の唇と唇の間の距離分ぐらい。
ルースの視線は孝太郎の唇に釘付けとなり、身体は勝手に孝太郎に顔を近付けていく。
この時のルースの表情は、まるで夢でも見ているかのような、ぼんやりと曖昧で甘い雰囲気だった。

「きゃーきゃーきゃー! ちっ、ちがっ、そんな大それた事をっ! しかも寝込みを襲うようなやり口でっ!
 だめだめだめっ、そんなの駄目ですっ!!」

 もう少しで唇同士が接触するという時になって、ルースは我に返った。
決定的な瞬間を前にして、彼女の生真面目な性格が辛うじてブレーキをかけたのだ。
ルースは自分が何をしようとしていたのかを思い、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
自他共に認める真面目な自分が、我を忘れるほど一人の男性を好きになっているという事が、信じられない。
出来れば畳をめくってその下に隠れたいぐらいの勢いだった。

 ―――でもよかった、虚しい事をせずに済んで………。

 そしてその反面、ルースは安堵していた。ルースが欲しいのは気持ちであって、行為そのものではない。
寝込みを襲い、一方的に行為を強いるのはあまりに虚しい。
既に恋人同士ならばそれでもいいのだろうが、今はそうではない。
真面目な彼女だから、きっと後で後悔するに違いないのだった。

 ―――恋人同士ならともかく………そんな事………
     既に恋人同士より親しいような気がしなくもありませんけれど………最初が一方的ではあまりに………。

 やがてルースは指先で孝太郎の頬をつんつんと突き始めた。
ルースは自分一人で恥ずかしい思いをして大騒ぎしたのは孝太郎のせいでもあると思っている。
これは言いがかりに近いものなのだが、多少の悪戯をするぐらいは許される筈だった。

「………えい、えいえい………ふふ………参ったか、おやかたさま………」

 日頃は従順で自己主張が少ないルースなのだが、この時は非常に楽しげに孝太郎への悪戯(いたずら)を繰り返していた。
誰も見ていないという安心感が、その背中を押していたのだ。

「ん、んんぅぅぅうぅぅぅ………」

 だが唐突にルースの手が止まる。孝太郎が寝苦しそうに表情を歪めた為だった。

「………しまった、調子に乗って………済みません、おやかたさま………」

 再び我を忘れてしまっていた事を反省し、ルースは悪戯を止めた。

「そうだ、こうすればきっと………」

 そしてルースはやり過ぎた償いにと、孝太郎に膝枕をしてあげる事にした。
そうすれば少し寝易くなるので、失敗を帳消しに出来る筈だった。
ルースは孝太郎の頭の下に自分の膝を滑り込ませると間近から孝太郎の顔を見下ろす。

 ―――これは、仕方がありませんよね。この方がよく眠れる筈なのですから………。

 ここは自宅なのだから、本当は押入れから本物の枕を取り出した方がいい。
けれどルースは恋をしている少女であったから、その事には気付かないふりをした。






 早苗(さなえ)が一〇六号室へ駆け込んで来たのは、ルースが帰ってきた時から三十分ほど後の事だった。
両親に買って貰ったばかりの、フードにウサ耳がついたパーカーを自慢したくて弾丸のように駈け込んで来たのだ。

「孝太郎孝太郎! 見て見てっ、可愛いでしょっ!」
「サ、サナエ様っ!?」

 これに驚いたのはルースだった。
眠っている孝太郎に膝枕をしてやりながら、時折その髪に触れたり、頬を撫でたりと、
帰宅してからの三十分間はルースにとって夢のようなひと時だった。
おかげで完全に気を抜いていて、誰かが飛び込んでくるなど考えもしていない。
それだけにルースの驚きは深く、心臓を掴まれたかのような衝撃を受け、身体を硬直させてしまっていた。

「なんだ、寝てるのかぁ………」
「………」
「ん? どしたの、ルース」

 反対に早苗はルースがなぜ驚いているのかが分からない。
早苗には幽霊時代に(つちか)った孝太郎にはくっつくものだという強固な信念があるので、
ルースがそうしているのを見られて驚いたり照れたりする感情が想像できないでいた。

「い、いえ、べつに………」

 ルースは首を横に振りながら、急激にその顔を赤らめる。今の彼女はまるでトマトのようだった。

『早苗ちゃん、これはね………』

 すると早苗の中にいる『早苗さん』の部分が反応し、ルースの反応の意味を『早苗ちゃん』の部分に伝える。
最近は孝太郎達にも慣れ、時々『早苗さん』もこうして顔を出すようになっていた。

「ああ、そういう事か!」
「!!」

 早苗の表情に理解の色が走り、ルースは慌てて顔を伏せる。おかげで耳まで真っ赤になっているのが早苗からよく見えた。

「いいじゃない、孝太郎にくっつくぐらい。アニメみたいで」

 ルースが照れる理由は分かっても、やはりその感覚は早苗にはよく分からない。
おかしな事に照れているものだと笑うばかりだった。

「うぅっ………そう言われましても………」

 ルースは恥ずかしくて顔が上げられない。二人の価値観には大きな隔たりがあった。
だが見られたのが早苗だったのは不幸中の幸いではある。
これが静香(しずか)やゆりかであったら、もっとおかしなからかわれ方をしたに違いないのだ。

「好きならいいんだよ。くっつかないと気持ちなんて伝わらないんだから」
「………サナエ様のように考えられれば楽だったのでしょうが………なにぶん生まれついてのもので………」

 ルースが僅かに顔を上げ、早苗をちらりと見る。
早苗が優しく微笑んでいるのを確認して安堵したルースは、ここでようやく顔を上げる事が出来た。

「ルースは真面目だもんね。もうちょっと自分の心に素直でいいと思うんだけど」
「素直にやって、これが精一杯です。サナエ様のように、おやかたさまの心は見えませんから。
 それにやりすぎておやかたさまに嫌われたくはありませんので………」

「孝太郎はルースの事を嫌ったりしないよ」
「そうだと、よろしいのですが」

 ルースは軽く眉を寄せて微笑むと、再び孝太郎の顔に視線を落とす。
孝太郎はこの騒ぎにもびくともせず、呑気に眠り続けている。楽しい夢でも見ているのか、その表情はどこか明るい。

「何を考えていらっしゃるのか………わたくしには想像もつきません」
「なんだったらルース、見に行ってみる?」
「えっ? 見に行くって、何をですか?」

 早苗の唐突な提案に、ルースは首を傾げる。言葉の意味がまるで分からない。

「孝太郎が何を考えているか。どんな夢を見ているのか。知りたいんでしょ?」
「それは、そうなのですが………でもそんなものをどうやって?
 フォルトーゼでも人の心の中を直接見る技術は開発されておりませんが」

「そんなのいらないよ。もっと簡単」

 早苗の言うような事が出来るとは思えない。
出来るとすればクランぐらいだろうが、早苗の様子からするとそうではなさそうだった。

「幽体離脱して、孝太郎の夢の中に潜り込むの。簡単だよ」
「ゆっ、幽体離脱ぅっ!?」

 早苗は腕組みをして自信満々にその方法を明かしたが、ルースにとってそれはあまりに予想外の手段だった。





 夢とは精神活動の一形態。ならば精神だけの存在、魂になれば孝太郎の夢と同化する事が出来る。
その為に必要なのが幽体離脱である―――早苗はその事をルースに説明していった。
早苗の説明なので擬音が多くて分かりにくいのだが、程なくルースも早苗の提案の意味を理解した。

「それではわたくしとサナエ様が幽体離脱をして、おやかたさまの心の中に入り込むという事なのですね?」
「そそそ。なんも難しい事じゃないんだって」
「仰る意味は分かりましたが、サナエ様はともかく、わたくしには幽体離脱は出来ませんから」
「平気平気。いくよー!」
「ちょ、ちょっと―――」

『はい、完了~♪』
『―――待ってって、あら?』

 せっかちな早苗はルースの返事を待たずに幽体離脱を実行した。
早苗はルースの霊体を掴んで身体から飛び出たので、至極あっさりとルースも幽体離脱を果たしていた。

『サッ、サナエ様っ! あっ、あっちにもわたくし達がっ!』
『落ち着きなさいってルース。幽体離脱したんだから、向こうにあたし達がいるのなんてあたりまえでしょ』
『そう仰られましても………』

 あっさりと幽体離脱を果たしたルースだったが、気持ちはそうあっさりと納得してはくれない。
いきなり幽体離脱という未知の状況に放り込まれ、すっかり混乱していた。

『サナエ様、もしかしてわたくしは死んだのでしょうか?』

 唐突に身体が半透明になって、動かなくなったもう一人の自分を目にすれば、
混乱したり自分が死んだのではないかと疑ったりするのは自然な反応だろう。

『そんな訳ないでしょ。ほら見て、有線有線』

 そんなルースに早苗は背中を向け、腰のあたりをリズミカルに揺らす。
するとウサギをモチーフにしたパーカーの腰のあたりについている尻尾の飾りから、一本の線が伸びていて、
それが早苗の腰の動きに合わせて左右に揺れている。そしてその線は、もう一人の早苗に繋がっていた。

『この線が身体に繋がってれば大丈夫』
『あっ、わたくしにもあります!』

 ルースの腰にも同じ線があり、もう一人のルースに繋がっていた。
これは文字通りの意味での生命線で、身体と魂を接続してくれている命綱。
これが繋がっている限り、身体に戻るのは簡単だった。

『納得した?』
『は、はい、なんとか』

 どうやら早苗がいつもやっている分離に近いものらしい―――
それを理解した事で、未知の体験に振り回されていたルースも落ち着き始めていた。

『じゃあ今度はあっち! 行くよー!』
『ちょ、ちょっと待って下さいサナエ様っ! 今度は一体何をっ!?』
『じゃーーーんぷっ!』

 だがルースには完全に落ち着く暇は与えられなかった。
早苗は再びルースを掴むと、眠っている孝太郎に向かって思い切りジャンプする。
すると不思議な事に、早苗の足は孝太郎の身体を踏みつける事なく、そのまま中へと吸い込まれた。
そうなると早苗に掴まれているルースも同じ運命を辿った。

『きゃああぁあぁあぁぁぁぁっ!』

 その間、ルースは叫んでいる事しかできなかった。

『………なんだか楽しそうだね、ルース』
『全然楽しくありませんよぉぉぉぉぉっ!! きゃあああぁぁあぁぁぁぁっ!!』

 こうしてルースと話を聞かない白いウサギは、孝太郎の心の中にある世界へと飛び込んでいった。



   ◆◆◆次回更新は4月10日(金)予定です◆◆◆

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