シーン03 フォルトーゼ式チェス
エルファリアも薄々キリハの意図には気付いていた。でも気付いていたからこそ、エルファリアは全力で勝ちに行った。世の中には気付かないふりをした方が良い事もある。他人の思い遣りを当然のように受け入れるのは抵抗があったし、一人の女性としてのプライドもあったから。
しかし最終的にエルファリアは負けた。キリハの真っ直ぐな優しさが、エルファリアの意地に勝ったのだ。本気と誤魔化しがぶつかれば、本気が勝つのは当然だろう―――エルファリアはこの結果をそのように受け止めていた。
「………娘の友達に、気を遣われてしまいましたよ、レイオス様………」
エルファリアはベッドで眠り続ける孝太郎に囁きかける。この時の彼女の表情は苦笑気味だった。経緯はどうあれ、この結果を嬉しいと思ってしまっていたから。普段はこうして二人きりになれる機会など全く無いし、孝太郎が目を覚ましていたら言えない事もある。だから今この瞬間は、エルファリアにとってとても貴重な時間だった。
「………でもこれはレイオス様のせいなんですよ。レイオス様だけが、二十年も時を飛び越えてしまうから………」
普段は決して言えない本音。直接は口に出来ない、隠したままになっている想い。それが胸の奥から溢れ出して来ている。二人きり、孝太郎は眠っている、だからこそ口に出来た、紛れもない彼女の本音だった。
「………ティアや他の子達の為に、諦めた、つもりだったんですけれど………こうしてお顔を見ていると、その決意が揺らいでしまいます………駄目ですね、もういい大人だというのに………」
エルファリアの手が、遠慮がちに孝太郎の頬に触れた。すると触れている部分から、二十年以上前に手放した筈のぬくもりと想いとが波紋のように広がっていく。それが心を揺らし、少しずつ彼女の心を少女時代へと引き戻していった。
情熱だけに駆られて、ひたすら走り続けていた少女時代。その時に出逢った風変わりな男の子。彼は伝説の英雄という重過ぎる看板を背負い、苦悩し続けていた。エルファリアもまた皇女の看板を重過ぎると感じていたから、心惹かれるようになるのに幾らも時間はかからなかった。
「………いけない、これ以上は………引き返せなくなってしまう………」
しかし高まった想いが破裂してしまう直前に、エルファリアは手を引いた。孝太郎は伝説の英雄の看板を降ろさなかった。そしてエルファリアはその意志を守りたいと思った。だから自身も皇女の看板を降ろさず、やがて皇帝となった。孝太郎が掲げる意志―――騎士道を、そのまま貫かせてやる為に。それがエルファリアなりの愛情の示し方。彼女は傍にいて触れ合う事が全てではないと、信じているのだった。
「………十代の娘でも、あるまいに………」
エルファリアは一度目を閉じて気持ちを落ち着かせると、孝太郎の額から濡れタオルを取り、冷水で洗った。
「………んー………」
そしてエルファリアが再びタオルを額に乗せた時、ずっと眠ったままだった孝太郎がゆっくりと目を開いた。
「すみません、起こしてしまいましたね、レイオス様」
「………ああ、そうか………熱出したんだっけ………」
寝起きの孝太郎は意識がはっきりしないのか、ぼんやりとエルファリアの顔を見つめている。放っておけばすぐにまた眠ってしまいそうな雰囲気だった。
「………何で泣いてるんだ、エル………」
「えっ?」
エルファリアはその時初めて、自分が泣いていた事に気が付いた。そしてその理由を悟られたくなかったから、慌てて涙を拭った。
「………またお前をいじめる奴が来たのか………?」
「いいえ、目にゴミが入っただけです」
「………そっか………ほんとにまずい時はすぐに言うんだぞ………」
孝太郎はそう言って再び目を閉じた。たまたま目を覚ましたものの、まだまだ寝足りないのだ。それに真面目な時のエルファリアは、後を任せて安心だった。
「はい………でも、レイオス様はどうして私を助けて下さるんですか? ティアの為ですか? それとも皇家やアライア様の為ですか?」
それは普段なら訊きたくても訊けない質問だった。孝太郎が寝惚けているからこそ訊ける事であり、そして同じ理由で孝太郎も答える事が出来るだろう。眠りと現実の狭間にいるからこそ、お互いに素直になれるのだった。
「………俺がお前を助けるのに、何か理由が必要なのか………?」
孝太郎はそう答える時だけ目を開けていた。だがすぐにまた目を閉じてしまう。
「………レイオス様………」
だから孝太郎は結局、その時のエルファリアがどういう顔をしていたのかを見ずに終わった。
「………」
そして孝太郎は幾らもしないうちに寝息を立て始めた。元々寝つきはいい方である上に風邪薬が効いているので、孝太郎はすんなりと眠りの底へ戻った。孝太郎の心配事はエルファリアの涙だけ。それが片付いた今、孝太郎を現実に繋ぎ止める物は何もなかった。
「………それを仰らないで下さったら、諦められたんでしょうけれど………」
エルファリアは再び孝太郎の頬に手を伸ばした。この時の彼女は幾らか身を乗り出していたから、頬を伝って零れ落ちた涙は、その伸ばした手の甲に落ちた。
「………これはレイオス様のせいなんですからね………そうやって安易に、他人の望む物を注いでしまうから………」
エルファリアは覆い被さるようにして孝太郎を見下ろした。すると孝太郎の頬に彼女の涙がぽつぽつと零れ落ちる。だが孝太郎は目を覚まさない。そのまま彼女はじっと孝太郎を見つめ続けた。心のままに、ずっと、ずっと。そうしながら、エルファリアは孝太郎の頬から決して手を離さなかった。
キリハが孝太郎の部屋に戻ったのは、時計の針が夜の十一時を回った頃の事だった。つまり夕食以降の数時間を、エルファリアに任せてしまった格好になる。そして色々な意味で頃合いだと思ったキリハは、孝太郎の部屋へ戻って来たのだった。
「陛下、孝太郎の具合はいかがでしょうか」
「薬が効いたのでしょう、熱はもうないようですよ」
「陛下の看病のお陰でもあるでしょう」
「ふふふ、私はレイオス様に悪戯をしていただけですよ」
「物好きな男ですから、それで問題は無いでしょう」
キリハが部屋に戻った時、エルファリアは孝太郎のベッドの傍に置いた椅子に座り、読書をしていた。キリハに気付いた彼女は視線を上げ、笑い掛けてくる。その笑顔を見たキリハは、数時間前とは少しだけ笑顔の雰囲気が違う事に気が付いた。少し緊張のネジが緩んでいるというか、まるで若い少女のような無防備な笑顔だったのだ。
―――ふむ、どうやら我の判断は正しかったようだな………。
キリハはこの結果に満足すると、これから先の事を思案する。そしてすぐに孝太郎の事はこのままエルファリアに任せるのが良いだろうと結論した。エルファリアが皇帝に返り咲くにしろ、そうでないにしろ、この先は孝太郎と過ごせる時間がこれまで以上に少なくなるからだ。だからどうやって再び孝太郎の世話を押し付けようかと考え始めたのだが、その結論が出る前にエルファリアの方がキリハに話しかけてきた。
「キリハさん、今度はこれで遊んでみませんか?」
エルファリアはそう言いながらキリハに光沢のある板と、大理石で作られた沢山の駒を指し示した。キリハは一目でそれがゲームの類であると分かったのだが、見覚えがないものだった。
「これは何なのですか?」
「フォルトーゼの古典的なゲームで………ええと、地球でいうチェスとか、将棋に当たるものです」
「それは………興味があります」
キリハは考え事を一旦脇へ置き、改めて板と駒を見つめる。確かに駒の形には見覚えは無かったものの、チェスや将棋の駒のつもりで見ると、それらしいデザインをしている。板―――ゲーム盤の方も、チェスや将棋と同様に四角いマスが並んでいるものだった。
「ルールにもそう大きな違いはありませんから、キリハさんならすぐに遊べるようになると思いますよ」
エルファリアは笑顔でキリハに冊子を差し出した。それは既に日本語に翻訳されているルールの冊子だった。
「拝見します」
キリハは冊子を受け取ると、ぱらぱらとページを捲っていく。細かい部分ではやはり違いはあったが、交互に駒を動かしたり、駒の役割などはよく似ていた。確かにこれならすぐに覚えられそうだった。
「やってみませんか?」
「はい。多分、ルールは何とかなると思います」
このゲームを遊べば、フォルトーゼの戦術思想や文化が垣間見られるかもしれない。キリハにとってもプラスはあるので、別段断る理由はなかった。
「では今度も、負けた方がレイオス様のお世話をするという事にしましょう」
「陛下………」
どうやらエルファリアの狙いはキリハに勝つ事にあるようだった。先程のお返しのつもりなのかもしれない。だから慣れているゲームを持ち出して来た―――キリハはこの時のエルファリアの行動をそんな風に解釈していた。
「ふふふ、勝つまでやるのが我が家のスタイルです」
「それが二千年不敗の伝説を支えているのですね………しかし負けませんよ、陛下」
「望むところです、ふふふふっ」
しかしそれが分かった上でキリハは対戦を受けた。既にキリハの目標は達している。あとはこのゲームに勝つ事が出来れば、その延長が出来る。元々それを考えていたのだし、負けても悪くなる訳ではないから、キリハとしては望むところだった。
フォルトーゼ式のチェス―――そう呼ぶ事にする―――は、地球のチェスや将棋によく似ている。最前列は前進だけが可能な歩兵が固めていて、その背後に特殊な動きをする駒が並ぶ。大まかなルール的には将棋に近いが、取った駒が使えないあたりはチェスに似ているとも言えるだろう。
だがもちろん似ているだけではなく、独自色が発揮されている部分もある。目立つのは幾つかの駒だろう。キングや王将に相当する駒は皇女となっている。更にはクイーンに相当する最強の駒は青騎士、ルークやビショップが巨人や火竜だったりする。駒はフォルトーゼの青騎士伝説をモチーフに作られていた。
「怖い怖い、段々攻め上って来ましたね」
「ルールを完全に把握している訳ではないので、守勢に回る訳には参りません」
「そこが分かっている人間は、ルールを知っているだけの人間よりも怖いのですよ」
キリハは攻勢に出ていた。徐々に歩兵のラインを押し上げながら、後続の兵力をエルファリア側の配置に合わせて攻撃し易いように並べ直している。
彼女は自分でも言っているように、ルールを完全に把握している訳ではない。駒の動きは分かっていても、その組み合わせ方や、ルールとの相互作用までは完全に理解していないのだ。従って攻撃するか迎撃するかの話になると、完全に分かっている部分を利用して攻撃する方がいい。何をされるか分からない迎撃では、理解が甘い部分を攻められると困った事になってしまうのだった。
「こうなるとこちらは守るしかありませんねぇ」
「この手のゲームでは、一番面白い展開になっているのでは?」
「そうですね、激戦必至です。ふふふ………」
対するエルファリアは守備的に駒を配置していた。キングに相当する皇女の駒を左の隅へ移動させ、周囲を多くの駒で守っている。これは将棋で言う所の穴熊に近い。防御的な陣を敷いて、相手に兵力の浪費を強いる戦法だった。
兵力を集中させ波状攻撃を狙うキリハと、それを何とかしのいで逆襲に出たいエルファリア、戦法は両極端。しかし将棋とは違って取った駒が利用できないので、攻守共によりシビアな判断が求められる。エルファリアが言うように、激戦は必至だった。
「なかなかミスをしませんね、キリハさん」
「勝つにしろ負けるにしろ、戦いの中で終わりたいですから」
「同感です。倒れる時は前に倒れましょう」
それからしばらくの間は静かな展開が続いた。それは戦いというよりも読み合いや騙し合いが水面下で続いている状況と言える。お互いに最前列が激突する前に、可能な限り有利な陣形を組もうと必死だった。
「そろそろ始まりますね」
やがて双方の最前列が至近距離で向かい合う時が来た。手番が回ってきたキリハが駒を一つ前に進めれば、激しい戦いが始まる事になるだろう。
「はい。では陛下、参ります」
コトン
そしてキリハはにっこりと笑うと青騎士の駒を前に出した。攻撃の要となるのは、やはり縦横斜めに自由に動ける最強の駒、青騎士だった。
双方の陣形は完成している。だがお互いに相手の動きに合わせて流動的に陣を組んだので、双方共に理想の陣形とは言い難い。可能な限り早く相手の弱点を見付け、あるいはミスを誘い、皇女の駒を倒さねばならない。だからこの先は戦術というよりも、冷静さや心の強さが問題になってくる。そしてその点に関しては、折り紙付きの二人だった。
◆◆◆次回更新は2月24日(金)予定です◆◆◆