シーン03 : ハートのジャック
孝太郎と合流してからしばらくの間、早苗とルースは孝太郎とのおしゃべりに興じていた。
夢の中の孝太郎は普段よりも幾らか素直で、二人にとって興味深い話を幾つも聞く事が出来た。
おかげで少し前には泣いていたルースも、今ではすっかり元の調子を取り戻していた。
「やはりおやかたさまは殿下の事がお好きなのですね」
「あたしの事も好きだよ。もちろんルースもね」
『そりゃそうだ』
「よかったね、ルース」
「はい」
だが時間が経つにつれて、夢の中とはいえ時間が心配になり始める。
幽体離脱して孝太郎の中へ入ったのは、もうすぐ夕方になる頃。だからそろそろ帰らねばならない時間だった。
「………それではおやかたさま、わたくし達はそろそろお暇致します」
ルースは名残惜しかったのだが、一旦別れの言葉を告げた。
現実ですぐ再会するのだろうが、夢の中でもその几帳面さは健在だった。
「え~、まだいいじゃない」
早苗はまだまだ遊び足りないようで、孝太郎と一緒に芝生の上を転がりながら、その足をばたつかせる。
「晩御飯の用意をしませんと。それにおやかたさまの事も起こさねばなりませんし」
「あ、もうそんな時間だったっけ」
しかしルースの口から食事の話が出ると、早苗はすぐに不満な様子を消して、勢いよく起き上った。
「遊ぶなら起きてからでもよろしいのではありませんか?」
「そうしよ。よし、さっさと起きて孝太郎起こそっと」
立ち上がった時には、早苗はもうすっかり夢の世界から帰るつもりになっていた。
この場所にいるのも楽しかったが、なにぶん三人だけでは派手さに欠ける。
だから現実の世界で遊ぶ方がいいという、非常に早苗らしい動機だった。
『俺の事はもうちょっと寝かしとけよ』
孝太郎は横になったまま早苗とルースを見上げる。
孝太郎はこの夢を作っている者なので、二人と一緒に帰る必要はない。
というより、二人と一緒に帰るのは不可能だった。
「もうちょっとって、五分?」
『もう一声』
「十分ね」
『それで手を打とう』
「よかろう、もうしばらくうたたねを許す」
『ありがとうございます早苗お嬢様』
「うむ」
「ふふふ………それでは失礼します、おやかたさま」
孝太郎と早苗のやり取りに楽しそうに目を細めると、ルースはもう一度改めて別れの言葉を告げる。
厳密には一度姿が見えなくなるというだけなので、その声にはいわゆる別れの深刻さはない。
それは孝太郎と早苗も同じだった。
『ええ、またあとで』
「十分経ったら起こすからね」
『分かってる分かってる』
孝太郎は横になったまま二人に手を振ると、再び野球の試合を眺め始めた。
すぐに現実で再会できる事もあって、孝太郎はすぐに早苗達に興味を失って、試合に集中し始める。
早苗もその辺は分かっているのだが、常に構って貰いたい彼女は不満を隠せず、その唇を尖らせた。
「まったく、本当に野球バカなんだから」
「ふふ、そう仰らずに」
人が見たくて見ている夢の中に入り込んで、それを邪魔していたにもかかわらず、
少しも反感を買わなかったのは本来凄い事なのだが、それを成し遂げた二人には今一つその自覚はないようだった。
帰りも来た時と同じで、早苗とルースが帰りたいと思う気持ちに反応して、周囲の風景が変わっていく。
おかげで彼女達が足を動かしている速度よりもずっと速く、河川敷と野球場が遠ざかっていった。
「この感じは何度やっても不思議です」
「あんた達の不思議ワープ程じゃないでしょ」
「そういう考え方もありますね」
二人が進むと、周囲は徐々に明るくなっていく。
そしてその明るさが頂点に達する場所こそが、夢と現実の接点。現実世界への出口だった。
「あら?」
しかしルースは出口へ至る前に足を止めた。白い光の向こう側に、気になるものを見付けたのだ。
「どうしたの?」
「サナエ様、あれは何でしょう?」
ルースが見つけたのは、黒い塊だった。
距離があるし、白い光にも邪魔されて、大きさはよく分からない。
しかし一度気付いてしまうと気になる存在だった。
「ああ、あれはね、孝太郎が悲しかったり、寂しかったりする部分が集まってる場所。
ここは孝太郎の心の中だから、そういうものもあるんだよ」
黒い塊は先程の河川敷と同じく、孝太郎の精神世界の一つだ。
だがその黒い色が象徴するように負の感情が集中しており、河川敷とは真逆の性質を持った世界だった。
「でも孝太郎はそれをあたし達から遠ざけてくれてるでしょ?」
「はい」
「だから触れないであげるのがいいと思う」
黒い塊は二人の進行方向―――出口とは全く違う方向にある。
また白い光に隠れて見えにくくなっており、気付かずに通り過ぎる可能性が高い。
ルースが見付けたのは単なる偶然だ。
孝太郎は二人が不用意に踏み込んでしまわないように気を付けているのだった。
「サナエ様は、あの中へ行った事はあるのですか?」
「最初の頃に訳が分からないまま、迷い込んだ事がある」
今でこそ孝太郎の中の世界に詳しい早苗だが、始めからそうだった訳ではない。
知らずに孝太郎にとって辛い部分にまで踏み込んでしまう失敗もした事がある。
この黒い塊に関してもその一つで、おかげで彼女には詳しい知識があった。
「だから御存知だったのですね」
「うん。でも途中で引き返した。
あの黒いのがね、凄い力で押し返してくるの。押し潰されそうになったから、逃げてきたの」
二人は道を逸れ、黒い塊に近付いていく。
塊との距離が詰まると、それが固体ではなく霧である事が分かった。
黒い霧、あるいは闇に包まれた世界だったのだ。
二人はその手前で足を止め、黒い霧を見上げる。
その大きさは河川敷がすっぽりと入りそうなくらいの大きさがあった。
しばらくそのまま黒い霧を見上げていた二人だったが、
やがてルースは何かを決意すると早苗の手を掴み、その顔を覗き込んだ。
「サナエ様、わたくしと一緒にもう一度挑戦してみませんか?」
もう一度挑戦する―――それはこの黒い霧の中に入るという事だ。
早苗はこの提案に驚き、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「ええっ!? あぶないよっ!?」
早苗は反対だった。
孝太郎の辛い部分に触れるのは可哀想だし、何より黒い霧が発する圧力が危険に思えたのだ。
「わかっております。でも………本当におやかたさまとわたくし達の未来を思うなら、避けて通れない問題だと思うのです」
「そうかもしれないけどさぁ………」
ルースも危険は承知の上で、あえて提案していた。
孝太郎の過去との対峙は、いずれどうしても必要になってくる問題だった。
早苗もそれは分かるのだが、危険を肌で感じた事がある分だけ及び腰だった。
しかしルースにはもう一つ、そうすべきだと考える理由があった。
「それに、おやかたさまもきっとそれを望んでおいでです」
「どうして分かるの?」
「ここへ来る事自体は簡単だったからです」
「そっか。本当に嫌だったら、これ自体に近付けないようにするよね………孝太郎自身も何とかしたいとは思ってるんだ」
「はい」
もし孝太郎が本当にルースと早苗が黒い霧に触れるのが嫌なら、二人が近付きたいと思ってもそうならないだろう。
ここは孝太郎の自由になる世界なのだから。
だから辛うじて見える場所にあり、近付こうとして近付けるという事が、孝太郎の真の願いを現しているという訳なのだ。
「………おやかたさま、わたくし達も頑張りますから、どうかわたくし達を受け入れて下さいませ………」
「あたし達がいないと全然駄目なんだからもぉ」
ルースと早苗は手を繋いで霧の中へ踏み込んでいく。
孝太郎の心の闇は深い。
その奥底まで行った事があるのは、同じく心に闇を抱えた真希一人しかいない。
その真希ですら、シグナルティンの助けがあってこそなので、自分達の力だけでそこへ至ろうとする試みはこれが初めてだった。
「く、こ、これが………」
「しっかり、ルースッ!」
二人が歩を進める度に、周囲の黒い霧が深まる。
そして黒い霧が深まるにつれ、二人に二種類の力が襲い掛かってきた。
それは二人を押し潰そうとする圧力と、黒い霧の外へ押し出そうとする斥力だ。
これは孝太郎の精神が悲鳴を上げ、二人の足を止めて追い返そうとする働きだった。
「でっ、でも、前より弱い、かも………」
「おやかたさまも、がんばっておられるのでしょう」
「そう、だねっ」
二人は支え合うようにして黒い霧―――心の闇の中を進んでいく。
圧力と斥力は強かったが、二人であったおかげで何とか耐える事が出来た。
二人は両足を踏ん張り、半ば抱き合うような格好で必死に進み続けた。
「おやかた、さまっ、だいじょうぶ、ですからっ」
「あんたは、もう、ひとりじゃないんだ、からっ、あたしたちにっ、もっと、たより、なさいっ!」
河川敷で野球を見る事が出来たように、この場所では孝太郎が過去に経験した不幸な出来事を垣間見る事が出来た。
母親が自分の身代わりになって交通事故で死んだ時の事。
それをきっかけにして父親との関係がうまくいかなくなり、家庭が崩壊した事。
それらは孝太郎が目を向ける事を避けている事なので、まるでシャッフルしたトランプのように、
時系列や出来事が入り乱れ、バラバラに並んでいた。
しかしそれでも十分に悲しみは伝わってくる。
だから二人は辛くても必死に足を動かし続けた。それが誰の為でもあると分かっていたから。
「ル、ルースっ、あ、そこに、誰か、いるよっ」
「小さな、お、おとこの、こ?」
早苗とルースの―――そしてきっと孝太郎の―――懸命な頑張りによって、二人は遂に黒い霧の中心近くまでやってきていた。
そして二人はそこで一人の少年を見付けた。返り血を浴びて真っ赤に染まり、編みかけのセーターを抱えた少年だった。
「孝太郎っ!」
「おやかたさま!」
その少年こそが、この闇の中心。孝太郎の悲しみの化身。二人が救わねばならない存在だった。
二人は圧力と斥力に耐え、必死に少年に向かって手を伸ばす。
「も、もうちょっとぉっ!」
「届いた―――きゃああぁぁぁぁっ!!」
しかし少年に手が届いたその時、ほんの一瞬だけ二人の気が緩んだ。
おかげで二人は圧力で叩き伏せられ踏ん張りが効かなくなり、斥力によって吹き飛ばされてしまった。
「きゃああぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!!」
「あとちょっとだったのにぃぃぃぃぃっ!!」
結局二人は何も出来ないままに黒い霧の中から弾き出されてしまった。
そして霧の中心にいた少年は、弾き出されていく二人の姿をただ無言で、じっと見つめていた。
◆◆◆次回更新は4月24日(金)予定です◆◆◆