ロキ編「邪な幸福に正当性を」

作者:イズシロ

アルスのパートナーとして、日頃から家事全般を担当するロキは、日々多くの家事をこなす。無論、好きでやっていることではあるが、ロキが掃除しなければ、室内は二日を待たずして散らかり放題になるだろう。だがアルスはそんな惨状の中ですら、どこに何があるのかを見事に記憶しているのだから厄介だ。結果、ロキがいくら片づけても、どんな状況だろうと目的の物を探すのにさしたる不便はない、とばかり、その努力は水泡に帰すのだから。
 当然無頓着さはそれだけに止まらず、ロキがやってきた当初、アルスはその食生活からしてあまり褒められたものではなかった。満遍なく栄養を取るには取るが、食事は基本的に作らず、ひどく簡素なものばかりだったのだから。
 そのレベルといったら、ロキが同じ屋根の下で暮らすことを選んで本当に良かった、と常々思っているほどだ。同時に、自分にできることがあるというのは、彼女にとっても幸運だったのだろう。ロキが甲斐甲斐しく世話を焼くことで、アルスが研究に費やせる時間を捻出できるのだから。
「今日も良い天気」
 ロキは窓の外を見て、ふとそう呟いた。人工の日差しだが、絶好の洗濯日和なのは間違いない。無論、それは生粋の太陽の光のように、カラッと衣類を乾かしてくれるわけではない。いっそ乾燥機の方がそれには適しているかも、というぐらいだ。
 だが、あえてそんなひと手間をかけることこそが、ロキに自分がアルスの役に立っている、という実感を与えてくれる。それはどこにでもある家庭生活の一コマのようで、彼女にとっては至福の時なのだ。
 早朝から洗濯機を回し、あえて乾かすまでの工程をキャンセルする。そんな間にも、ロキの浮足立った心はますます弾み、自然と鼻歌までも奏で始めていた。
 それでも、ロキが必要以上の音を立てないよう、最低限に気を遣っているのは、傍でアルスが研究に精を出しているからだ。
 一度夢中になると、彼なら多少の物音すら耳に入らなくなるだろう、とは思うが。この静けさが――二人だけの静けさが、実に心地よく感じられる。
 洗濯機を回している間に床を拭いたり、昼食の献立も考えておく。時間をこまめにチェックしては、アルスに飲み物を用意する。
 まさに至れり尽くせりであるが、アルスを甘やかし過ぎだ、などという輩がいれば、ロキは容赦なくそんな愚か者に天誅を下す所存である。
 それでも――
「アルス様、洗濯物は一緒に纏めておいてください」
 いつ着替えたのか、脱衣所でもない場所、そこらの椅子に掛けられたままの脱ぎ捨てたシャツを回収しつつ、ロキは言った。
「……」
だが、返事はない。相変わらず研究に夢中なアルスの目の前まで寄って、ロキはシャツを大きく広げて見せ、強引に意識を向けさせる。
「……アルス様、纏めて一緒に洗濯したいので、脱いだものは洗濯籠に!」
「わ、わるい」
「次からは気をつけてくださいね?」
 だらしない子供に言い聞かせる母親のように、ロキは言葉をかける。その癖が中々直らないことも知っているが、二度手間になってしまうと知りつつ、毎回同じことを繰り返している。そんなことの一つ一つすらが、彼女の中に大きな幸福感と夢の中にいるような感覚を与えてくれる。
 外界から離れて暮らせる、新たな生活。だが、きっとこれが後何年続こうとも外を忘れ去ることなどできないだろう。常に神経を張り、血生臭い戦場を駆け回らなければならない任務の日々。外界では三百六十度どこを取っても心安らぐ場所など存在しない。
 だから、この壁の内側でのアルスとの生活は、まるで一時の夢ように感じられた。そう、長く続かないと知っているがために、ロキは今を、この一瞬の幸せな時間を記憶に刻みつけるのだ。
 一時的にでも外界のことを忘れさせてくれる、この暖かいお湯に浸かったような時間が、彼女の胸を満たしてくれる。
 やれやれ、とロキは洗濯機の初動に間に合わなかったシャツを抱えて、脱衣所へと向かう。こうなれば手洗いも悪くない、とロキはそのままお風呂場へと入っていった。
 さっそく洗い出そうとして、ロキは肝心の手洗い用の洗剤がないことに気づいた――脱衣所に戻るために、再び立ち上がった瞬間。
「ヒッ!?」
 シャワーハンドルを膝で押し上げてしまい、冷水がロキの全身に降り注いだ。ずぶ濡れのまま、ロキは失態を悔いるように、慌ててハンドルを戻す。
 こんなこともたまにはあるのだろう。一つ息をついたロキは、自らの惨状を確認して、改めて大きな溜め息をつく。さすがに、上下とも着替えなければならないこの状況には、気分も滅入る。
続いて、「あっ!?」と何かに気がついたような声を上げたロキの視線は、静かな駆動音を鳴らす洗濯機へと自動的に向けられた。
 二人だけしかいないため、下着を除いて衣類はアルスのものと一緒に洗濯機の中である。かといって、ふしだらな格好のまま着替えを取りにいくわけにもいかない。アルスの邪魔、研究の妨げにはなりたくない。集中しすぎていて気づかない可能性もあるが、さすがにロキ自身がそんな恥ずかしさに堪えられそうもなかった。アルスに着替えを持ってきてもらう、という考えもすでにロキの中では却下されていた。
 ――残るは……。
 チラリと視線を手元に落とす。そこには今しがた洗おうと思っていたアルスのシャツが握られている。それに視線が止まった時点で、ロキの選択は一つに絞られたも同然であった。
 一度、シャツを鼻まで持っていくと、そこは嗅ぎ慣れたアルスの匂い。
「……」
 さっと早着替えのように、ロキは躊躇なくアルスのシャツを着る。やはり男物というだけあり、サイズ的にも十分いろいろ隠せるだろう。襟の匂いをそっと嗅いだのはご愛嬌だ。
 脱衣所からリビングへと静かに移動しつつ、ロキは自分の部屋までの距離を忍び足で詰めていく。
 が、得てして気づかれまいとすればするほど、かえって事態は上手くいかないものだ。堂々していればまだ、アルスの視界に入ったとしても、不審には思われなかっただろう。だが何者かが、密かに研究室内を移動しようとする気配は、かえってアルスの注意を引く結果となってしまったのは言うまでもない。
「で、お前は俺のシャツを着て、一体何をしてるんだ」
「は、はいッ……」
 苦しい笑みを浮かべながら、ロキは足をピタリと床に張り付かせ、アルスと視線を交わらせる。バレた上に、この状況を説明する恥ずかしさは、まさに言葉では言い表せないものがあった。
「ちょっと、濡らしてしまったもので、して――失礼しました!」
 視線を泳がせて、ロキは裾を引っ張りながら、慌てて自室へと駆け込むのであった。

※次回の更新は11月27日(月)を予定しています。次回のヒロインは、アリス! ご期待ください!

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