アリス編「変わらぬ日々のありがとうを」

作者:イズシロ

私は私が不幸であることを認めない。こんな決意は、結局のところ自己満足でしかないのかもしれない。でも、きっと何も知らない他人が私の――アリス・ティレイクの過去を知ったら同情するに決まっている。可哀想だって思うに決まっている。
 それが嫌で、普通でありたくて、私は隠し続けてきた――自分すらもその過去を忘れてしまうほどに。
 あの人体実験が遠因で、親を失くした私の心に、周りの人達は軽々しく触れてくる。でもそんな浅はかな共感や同情に自分を浸して、己を貶めてしまうことはしたくない。
 もう一度私は言います。
私は自分を不幸だとは思わない。
災難であったのかもしれない、人によっては不幸だったのかもしれない。でも最悪じゃない。絶望的でもない、壊れてもいない。
 私をどん底から救い出してくれた人がいた。そしてまた、二度と這い上がれない暗がりに進んで入っていこうとしていた私に、手を差し伸べてくれた人がいる。
 だから私は今、こうして毎日が幸せなの、幸せ者なの。いつも笑っていられる、ただそれだけで、今を感謝してしまうほどに。
 こんな時間がずっとず~っと続くとは思わないけれど……きっとフィアやアルやロキちゃんは変わらないような気がする。
 こんな私を暖かく受け入れて、きっと時間が過ぎても、何も、何一つ変わらずに接してくれる。だから毎日をただ、それがどれほど限られた時間であろうとも、私は全力で幸せを謳歌する。
 そんな限りある時間の中で、私は、皆が私と一緒にいてくれることに感謝する。

※ ※ ※

 研究室で、テスフィアとアルスが繰り広げている、いつものやりとりを見ながら、アリスはぼんやりと考えごとをしていた。
 そんな時はいつもどこか、意識が外に彷徨い出るような感覚になる。そう、実際にいつもアリスは、自分自身を俯瞰するかのように見つめ、仮初の人格を与えて、殻のように自分を覆っているところがある。
 他者と、他者から見て自分がいったいどう映っているのかを、つい少し離れた距離から見てしまうのだ。今も、賑やかな会話の輪の中から一歩身を引いているような感覚でいる。
 訓練に必死に食らいつきつつ、新たな情報を引き出そうとことあるごとに質問するテスフィアを、アルスは小言を交えつつ撃退しているところだ。
 こんな光景をいつの間にか見慣れてしまったかのように、ロキも溜め息を溢しつつ、それを眺めている。
 少しずつ変化を見せつつも、研究室のそんな日常は、本質的には何も変わっていないのだろう。
 アリスを含めてここにいる四人は、手を伸ばせば十分触れ合える距離で、会話中の、お互いの息遣いや距離感さえも確認できてしまう。
 少しでもヒントを得ようとした結果のテスフィアの拙い誘導も。それを看破し呆れ混じりになじるアルスの小言も。横で、それにしっかりと聞き耳を立てるロキも。
 その全てが、この空間を彩っているかのようにアリスの瞳には映って見えた。そんな輪に加わってしまうことが、この実感を薄れさせてしまう予感が、どこか怖くもある。この大切な幸せが、ありふれた日常の一幕へと貶められ、やがて輝きを失ってしまうのではないか、と。知らず知らず臆病になっている自分に、小さな自責の笑みが溢れた。
 ――大丈夫だよ……アリス。
 己に言い聞かせるように、アリスはそう胸の内に溢した。臆病で、現実を拒んで、一人抱え込んで、誰よりも……世界の誰よりも不幸だと嘆いた頃の小さな自分に、そっと囁きかけた。心に根付いた――過去の小さな自分の背中を擦るように。

 自分を肯定してあげるだけで、こんなにも日常が色づくのだから、それを知らない人達はきっと損をしているのだろう。そんな風に、まるで自分だけがちょっぴり得をする世界の秘密を知ったかのような優越感に浸って、アリスの頬がやんわりと綻ぶ。

 ――そういえば、前にも似たようなことが……。
 思い起こすまでもなく、アリスは黒髪の気難しい表情を浮かべた少年に目をやった。
 初めて彼に会った時のことを思い出すのは、今朝何を食べたかを思い出すよりも簡単だった。勘の鋭い者は、彼をただの学生だとは思わないだろう。でも、アリスは初めて彼を見た時、いくつもの「諦め」を乗り越えてきたように見えた。そして今、目の前の彼はまだ諦め続けている……そんな風にも見える。
 アリスだからそう見えたのかもしれないし、実際は違ったのかもしれない――いや、彼の戦い方を見れば、それは間違っていないのだろう。
 いつかのアリスのように、彼の中身はおよそ空虚で、人としてあるべき物がごっそりと抜き取られているようだった。
 そんな彼に対し、根は決して社交的ではないアリスが、咄嗟に声を掛けたのは、彼女だったからこそかもしれない。アリスだからこそ、彼の奥底にある黒々とした感情の断片を見つけられたのかもしれないのだ。
 今思えば、彼女からすれば、なぜかそれはとても自然な行動で、ただ彼を放っておくことができなかったのだろう。それが全ての始まりできっかけだったのだから分からないものだ。
「おいアリス。こいつにお前からもなんか言ってやれ」
「えッ!? はい……」
 アルスに突然声を掛けられたアリスは、即座に反応できずに口籠る。ぼんやりしていたアリスを、会話の中へと強引に引っ張り入れてくれる言葉。
 もう、一人怯えて蚊帳の外にいるのはよそう。そう思いながら、口元を緩めてアリスはことさら快活に口を開いた。そんな平穏な日常の輪へと入っていくための、小さな勇気の言葉を。

※次回の更新は11月29日(水)を予定しています。次回のヒロインは、フェリネラ! ご期待ください!

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