第四章 関東邪教大戦 其の一
それは、ベルフェゴールたちが国芳と出逢った大川の一件より遡ること二十年前――。
月明かりの下、吾妻橋をべろべろに酔ったベルフェゴールが渡っていました。
当初、奥平家から汐留の上屋敷を貸し与えられたベルフェゴールですが、藩の他の者も使う江戸藩邸を壊してしまったため、新たに江戸の町外れの本所に下屋敷を築き、「ご随意に」と与えられたのです。
屋敷に詰めるのは身の回りの世話をする僅かな使用人のみ。
送迎の駕籠もなく、おかげで飲み歩いた後は千鳥足で帰るしかありません。
吾妻橋から源森橋を越えた先の辻の手前で、ベルフェゴールが急に歩みを止めます。
「そこにいるのはだぁ~れぇぇ~?」
間の抜けた声ながら、ベルフェゴールの酔いは消えていました。
漂う妖気が尋常ではなかったのです。
夜闇から湧くように出てきたのは、覆面頭巾を被った身なりの良い武家。
二本差しとは別に、左手に革の刀袋を携えています。
そして刀袋の口紐を解き、柄が露出した瞬間、中の陣太刀が妖気の源であることがはっきりとわかりました。
夜目を利かせてよく見れば、刀袋の模様に見えたのは梵字。
梵字が封印の役を果たしていたのでしょう。その封印を自ら解き、魔王を睨みつけながら、覆面武士がぬらりと太刀を抜きました。
鍔元から雄々しく反り返る二尺六寸五分の姿。五七桐紋がついた糸巻太刀拵。
「ありゃま。童子切安綱だお」
名高き天下五剣の中でも、格別の由来を誇る一振り。
並みの刀ならばかすり傷ひとつ負わない魔王でも、鬼を斬った伝説を持つこの太刀となると、魔王でさえ斬られる可能性があります。
鞘を捨て、両手で八双に構え、踏み込んで袈裟に斬りつける覆面武士。
「ひゃんっ!?」
ベルフェゴールは飛び退いて避けたものの、足元が滑って尻餅をついてしまいました。
そこへ追撃で突き殺そうと迫る覆面武士。
さすがにこれは人間相手でも本気でやらねばまずいと思い、ベルフェゴールが電撃を放とうと尻尾を持ち上げたその時――
「ぬっ!? 辻斬りかァッ!?」
怒声に続き、飛来した石礫が強かに覆面武士の脇腹を打ち、「ウッ!?」と呻き声が漏れます。
間を置かず、中年の武士が抜刀しながら駆けつけ、抜き付けて覆面武士を引かせると、ベルフェゴールを庇うように正眼で立ちはだかりました。
「火付盗賊改方長官、長谷川平蔵であァる!!」
その名を聞いてもなお覆面武士が斬りかかろうとしたため、中年武士が刀を横一線!
綺麗に覆面の布一枚のみを斬り落とします。
さすがに肝を冷やした覆面武士は、顔を押さえて逃げ出しますが、覆面の下から現れた顔を見た中年武士もまた、ギョッとして固まってしまいました。
「なんと!? まさかそのようなことが……!?」
「てっつぁん、助かったのねん」
そう呼びかけられて、中年武士が我に返ります。
「ん? おめェ、俺を知ってるのか?」
「わたしだお~」
「こいつァ驚ェた! 退屈様じゃねェか! それより怪我はねェか!?」
「尻餅ついて、お尻痛いよぅ~」
「尻くれェ揉んでやらァ」
覆面武士が逃げ去ったほうを睨みつけた後、納刀した右手を差し出し、倒れたベルフェゴールを引っ張り上げる中年武士。
そして、覆面武士が落としていった鞘を拾い上げ、渋面を作ります。
「今の辻斬りだけど、てっつぁん、顔見て知ってるひとだったんでしょ~? 誰だったのん?」
「……こんな場所で軽々しく口にできる話じゃねェ。さ、屋敷まで送ってやる。その話は後日改めてするから、それまでは……な」
「こ~見えてわたし、お口は堅いのねん」
二日後、ベルフェゴールの耳にとんでもない情報が飛び込んできました。
「てっつぁんが……死んだ?」
病死との噂ですが、ベルフェゴールには到底信じられません。
「ラファえもん、手伝ってほしいことがあるのねん」
【次回第四章其の二は10月12日更新予定です】