第五章 藍より愛し 其の一

作者:設楽英一

第五章 藍より愛し 其の一

 日本がきな臭くなり始める天保の時代の少し前。
 午後の惰眠を貪るベルフェゴールが、寝返りを打った際に違和感を覚えて瞼を開けると、目の前に禿げ上がった老人の顔がありました。
「ベロ公、やっと起きたか」
「みぎゃ~~~~~っ!?」

「まったくもうっ! 勝手におうちに入ってくるのはまだしも、お布団に潜り込むのは犯罪だお、ほくしゃいっ!」
「魔王が人間様の法を語るたァ片腹痛ェぜ。んなことより、藍を寄こしな」
 傑出した才能を天下に認められながら、七十近くになっても人付き合いすらままならず、奇行を繰り返す当代一の浮世絵師、葛飾北斎。
 弟子は多いものの、この歳になると友と呼べる者もすっかり減り、普段付き合いのある昔馴染みはベルフェゴールくらいになっていました。

「あ~。あの顔料、使えそうなのん?」
「使えそうなんてもんじゃねェ! あの透き通るような明るい青を使えば、空と水が変わるぜ!」

 ベルフェゴールが北斎に渡した藍とは、プルシアンブルーのことです。
 元々は、密かに友人付き合いをしている勤勉の天使サンダルフォンが、ドイツで救世主(メシア)候補者と「キャッキャしながら実験してたら偶然できた」化合物で、新たな合成顔料として欧州で広まったのでした。
 日本にはまだほとんど伝わっておらず、久々にサンダルフォンと会った際に日本の浮世絵について話したところ、サンプルを渡されたのです。

 それを北斎に譲ったわけですが、ベルフェゴールの予想を超えて気に入ったらしく、お昼寝中の魔王に詰め寄る事態となりました。
「いきなり言われたって在庫なんかないお」
「だったら取り寄せろッてんだ。今やってる富嶽の揃物には、あの藍がどうしたって必要だぜ!」
「むちゃくちゃなのねん」

 自分の都合しか語らない北斎ですが、彼がここまでこだわるということは、一色で浮世絵の世界が変わりかねないほどのものなのかもしれません。
 日本の芸術のパトロンを自負するベルフェゴールとしては、働きたくないとも言っていられない状況のようです。

「ま~、用意してもい~けど、わたしに見返りはないのん?」
「旗本がケチ臭ェこと言ってんじゃねェ」
「お金じゃないんだお。このわたしが働くんだから、ほくしゃいだってなんかしてくんないと、おあいこにならないお」

 金ではない。それこそが、北斎がベルフェゴールとの友情だけは保ち続けた理由のひとつでした。
 北斎は金銭に無頓着なことで有名で、高い画工料を貰っても扱いがずさんなため、常に貧しい生活を送っていました。
 そんな中で、江戸の文化に金が回るように気前良く使い、才能ある絵師や作家を育てようとするベルフェゴールの、自分とは違う意味で金に執着しないところを北斎は気に入っていたのです。

「よしわかった。ベロ公、裸ンなれ。おめぇで春画を描いてやる」
「じゅええ~~~っっ!?」
 いきなりの申し出に、さしものベルフェゴールも飛び上がりました。
 北斎は本気のようで、さっそく紙と筆を用意し、硯で墨を磨り始めます。
「しゅ…春画は大好きだけど、描かれるのは恥じゅかちいお……」
「なァに、天井のシミを数えてるうちにゃァ終わるぜ」
 いやらしい作品を創ろうとしているのに、いやらしいことをする気はない。
 裸になっても手は出されない。
 一流の職人が持つこの感覚には、一流ゆえに一線を越えてくることはないという、逆の意味での安心感があります。

 ベルフェゴールは小麦色の肌でもそれとわかるほどに頬を紅潮させつつ、おずおずと白の江戸小紋に手をかけ、小振りな胸を――
「ベルフェ~……っとぉ、こいつはお邪魔さまっ!」
 いきなり襖を開けたラファエルが、そそくさと退散したものの、ベルフェゴールは頭から布団を被り、北斎も帰り支度を始めるのでした。

「さっきは悪かったな。それで、北斎とはしたの(・・・)?」
「んなわきゃないのねんっ!! だいたい人間相手に本気になるわけないお!」
 夏の夕暮れ、縁側に並んで枇杷を食べながら、天使と魔王が語るは恋の話。
「せいぜいあと二十年で死んじゃうんだから、好きになるだけムダだお」
「普段からムダなことばっかしてるヤツが、なに言ってんだよ。二百数十年もこの国で暮らしといて、“一期一会”もわかってないとはね」
 はっとした魔王が目を向けると、恋の天使(キューピッド)がサムズアップしていました。


【次回は11月22日更新予定です】

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