第五章 藍より愛し 其の二

作者:設楽英一

第五章 藍より愛し 其の二

 それからしばらくして、紺青(プルシアンブルー)は清国の商人によって日本に持ち込まれ、舶来の顔料として使われるようになりました。
 その際“ベロリン(ベルリン)藍”が訛って“ベロ藍”と呼ばれたのですが、北斎はそれに先んじて、特別な“ベロ藍”を使い始めていました。
 本家本元のサンダルフォン手製の“藍”を、ベルフェゴール経由で受け取っていたのです。

 安藤広重をはじめ、多くの絵師がこぞって“ベロ藍”を使う中、北斎の“ベロ藍”には独特の鮮やかさが見られました。
 変幻自在の水の表現に“ベロ藍”がふんだんに使われ、人気を博し、ついには「グレートウェーブ」の愛称で世界中に知られるようになる『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』をも生み出します。

 ある時、弟子が北斎に、なぜこれほど“ベロ藍”を多用するのかを聞いたところ、「俺ァ“ベロ藍”に惚れてるからな」と答えたそうです。
 また、「俺の“ベロ藍”は伯林(ベロリン)製なんかじゃねェ。あいつの色だ」とも答えたとか……。

 天下泰平の文化文政期から、天保、弘化、嘉永と時代が移り、日本は数々の天災や飢饉にみまわれ、世を騒がす事件も起こるようになりました。
 うららかな春のある日、ベルフェゴールは浅草聖天町の遍照院境内にある長屋に北斎を訪ねました。

 数えで九十にもなる北斎ですが、この正月にも見事な昇龍の肉筆画を描き上げており、創作意欲は些かも衰えを見せていません。
「ほくしゃ~い、来たお~」
 相変わらず、まるで掃除されていない部屋に、万年床に伏せった北斎と、娘でこちらも売れっ子絵師の葛飾応為(おうい)ことお栄がいました。
 お栄はベルフェゴールが家に来たことで、何かを悟ったのか、横になった父・北斎に顔を近づけ、言葉を交わした後、部屋を出ていきました。
「……お栄ちゃん、ありがとねん」

 ベルフェゴールは北斎の枕元に座り、北斎の頬に手を当てました。
 若干、顔に血の気が戻った北斎が、瞼を開いて鬼を見上げます。
「ほくしゃい、元気そだね~」
「……ぬかせ。……いよいよ俺を……地獄に連れてく時が来たか……」
「去年の暮れにばっきーが逝っちゃって、ほくしゃいまでいなくなるなんてやだお」
「……むしろ……死んだら……ようやくおめぇと……一緒になれらァ……」
 涙が溢れるのを、ベルフェゴールが寸前で堪えました。

「……だがな……もしもあと十年……生きられるんなら……いや……五年でいい……命があったら……俺ァやっと……本物になれる……」
「ほくしゃいは、もう世界中で認められてるお。本物の画工だお」
「……それなら……おめぇの春画を……描かせろ……俺ァまだ……おめぇに認められてねェ……」
 ベルフェゴールは白の江戸小紋を脱ぎ、裸になると、北斎の頭を膝に載せました。

「……ちくしょう……俺の筆が動くうちに……見ときたかったぜ……」
「わたしだって、もっとほくしゃいに迫って欲しかったのねん。でも、その機会は一回きりだったんだお。一期一会で失敗したら、終わりなんだお」
「……一回きりじゃねェよ……ベロ公……俺ァおめぇに惚れてたぜ……」
「キミ、そんな大事なことを、なんでここまで言わないかな」

 たまらず、ベルフェゴールが北斎の皺枯(しわが)れた唇に薄紅の唇を重ねました。
「……初めてのチューなのに、ほくしゃいくしゃ~い」
「……うるせぇ」
 それが死臭であることには、二人とも触れませんでした。

「……ベロ公……人は死んだら……人魂になるのか……?」
「そだね~。四十九日まではこのへんをフワフワして、あとは自由だお」
「……てこたァ……夏にゃァどこにだって……出かけられんだな……ベロ公……俺の人魂と……夏の原っぱにでも……気晴らしに……出かけ……よ……ぜ…………」

 人魂で 行く気(さん)じや 夏野原   葛飾北斎

「そっか、北斎も逝ったか。ま、アイツはその功績からも極楽浄土確定だから、地獄住まいの魔王とじゃ文字通り、住む世界が違うってやつだね」
 軽口で元気づけようとしたラファエルも、ベルフェゴールの落ち込みぶりを見て気を使います。
「ところでベルフェって、爺専なの?」
「違うおっ!!」


【次回は11月30日更新予定です】

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