第五章 藍より愛し 其の三

作者:設楽英一

第五章 藍より愛し 其の三

 安政二年(1855)六月。
 前年の黒船来航で日本が上を下への大騒ぎとなり、「幕末」が始まった時代。
 本所吾妻橋の奥平家下屋敷に、明石町の同中屋敷より密書が届きました。

「ベルフェ、なんだよ改まって」
 ベルフェゴールの書斎に呼ばれたラファエルが、いつもと様子が違うことを目敏く察します。
「昌高が危篤になったのねん」
「……ついにその時が来たか」
 奥平昌高は、ベルフェゴールが契約を交わした奥平信昌から数えて十代目の奥平家当主。
 彼の寿命が尽きると同時に、ベルフェゴールの契約が終了する人物です。

 薩摩藩島津家から奥平家に養子に入った昌高は、江戸住まいで、蘭学好きとして知られました。
 信昌以降、奥平家当主と距離を置いてきたベルフェゴールですが、昌高とは交流を持ち、オランダ語の指南なども請け負っていたのです。

「わたしは今から中屋敷に詰めて、昌高が死んだら、国元の豊前まで行って、奥平家と契約終了の手続きをしなきゃいけないのねん。
 たぶんもうここには戻ってこれないし、わたしが地獄に還ったらラファえもんも天界に戻らなきゃだから、今のうちに江戸のおともだちに、お別れを済ませておくんだお」

 そう、ベルフェゴールの契約終了は、ラファエルにとっても江戸の暮らしの終わりを意味します。
 思えば二百四十年もの間、魔王と共に暮らした江戸だけに、ラファエルにも“自分の居場所”が出来ていました。

「おっ! 天女様、御無沙汰じゃねぇか! 今日も別嬪だねぇ!」
 お江戸日本橋に住む歌川国芳は、ラファエルの数少ない昔馴染みです。
 武者絵で大成功し、時代が息苦しくなる中にあっては風刺画で江戸っ子の溜飲を下げてきた国芳は、今や江戸一番の人気絵師となっていましたが、中身は大川で出逢ったあの日のままでした。

 五十を過ぎても情熱が衰えず、西洋画にも強い関心を抱いており、ラファエルを通じて手に入れた西洋の銅版画を研究。その技法を用いて写実的な肖像画にも貪欲に挑戦していました。

「当代一の腕を見込んで、アンタに絵を描いてもらおうかと思ってさ」
「こいつぁ目出度ぇ! 俺もようやっと天女様に認めてもらえたってわけだ! となりゃあ善は急げだ、さっそく裸になっ(ボカチン!)あいたあっ!?」
「調子に乗んな」

 窓を閉め、戸締りをすると、ラファエルは改めて国芳の前に立ちました。
「アンタに描いてもらいたいのは、この姿さ」
 突然の眩い光に顔を背けた国芳が、再び目を開けると、いつもの巫女姿ではない、見たこともない格好をしたラファエルがいました。
「これが本当のアタシ、節制の天使ラファエルじゃん!」
 超ミニのセーラー服にサングラス。江戸の絵師にとっては、裸よりも過激な衣装ですが、国芳の創作意欲は大いに煽ったようで、猛烈な勢いで筆を動かし始めました。

「……よし。これでどうでぃ!?」
 国芳渾身の肉筆画は、顔料をふんだんに使い、西洋の写実画法をもって細密に描かれた、ラファエルの生き写しのような一枚でした。
「……やるじゃん」

「天女様。もしかして、そろそろ天へお戻りになるんで?」
「……なんでそう思うの?」
「そういうのは描いてるうちにわかるもんでさぁ。ああ、今生の別れのつもりで俺に描かせに来たなってね」
「……さすがに一流絵師の目は誤魔化せないか。ベルフェが地獄に還る時が来たから、アタシも天に戻らなきゃでね」
「たは~っ! 退屈様もいなくなっちまうのか! こりゃあ江戸が退屈になるぜ。……いや、退屈になれる余裕がなくなっちまうってことか」

 突然ラファエルが国芳の頭を胸に抱き寄せ、しばし抱きしめると、そっと離れ、少しやせ我慢した笑顔を見せました。
「アンタが救世主(メシア)候補者だったら良かったんだけどな。……じゃあね」
「……天女様、最後なんだから接吻くれぇしてくれてもいんじゃねぇか?」
「バカ、調子に乗んな」
 ラファエルは頬への接吻で済ませようとしましたが、機敏に顔を動かした国芳に唇を奪われました。


【次回は12月7日更新予定です】

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