第五章 藍より愛し 其の四

作者:設楽英一

第五章 藍より愛し 其の四

 大川に浮かぶベルフェゴールの屋形船に、ラファエルが一人乗っていました。
 船内を彩るのは、葛飾北斎の天井画、宗達と光琳の襖絵、最も新しいところでは歌川国芳によるベルフェゴールの美人画もありました。
「二百五十年ぶんの江戸文化の結晶、みすみす失うには惜しいさね」

 ラファエルが手招きをすると、座敷童子が姿を現し、歩み寄りました。
「長い間、この船の面倒を見てくれてご苦労さん。このまま主もなしに、ここへ浮かべておくわけにもいかないから、この船は地獄のベルフェのもとへ送ることにするよ。だからもう、別のところへお行き」
 座敷童子は哀しそうな顔をして、頭を振りました。
 彼女が指差した柱には、曲亭馬琴がしばしの間、この船で座敷童子に面倒を見てもらった折、感謝を込めて贈った詞が書かれていました。
「そうか。この船はすでにお前さんの家でもあったんだね。三途の川の渡し船になるかもしれないけど、船と一緒に地獄まで行くかい?」
 勢いよく頷く座敷童子。ラファエルは座敷童子を抱き寄せ、別れを告げると、屋形船を大川に沈めて地獄へと送りました。

 本所吾妻橋の奥平家下屋敷に戻ったラファエルは、二百四十年も住み続けた“我が家”を、見納めとばかりに眺めました。
 昨晩、奥平昌高の死去が奥平家から伝えられており、ベルフェゴールの契約が終わった今、ここの所有権はすでに奥平家に返されていました。

「こんなにも長い間、地上界の同じ場所で過ごしたのは初めてだもんなぁ」
 やけに感傷的になっている自分に、らしくないと自嘲すると、振り切るように背中の翼を広げました。

「お~っとぉ。わたしとの決着をつけないで逃げるつもりなのん?」
 振り返ると、天使として倒すべき標的たる魔王がそこにいました。
 二百四十年間、一緒に暮らし、散々笑い合った相棒でもあります。
「またどうせ、サタンに助けてもらうつもりだろ?」
「こりゃ~っ! 先にそれ言われちゃったら、その手は使えないのねん!」
「それなら今日こそはギッタンギッタンにしてやれるな! このうすのろのデンデン虫が! アタシが地獄に早駕籠で送り返してやんよっ!!」
「にゃにおぅ!? 羽むしって手羽先にして新たな江戸グルメにしちゃるお!」
「「や~っ!」」
 ぺしぺしぺし。
「今日はこのくらいでカンベンしてやらあっ!」
「おみゃ~こそ命拾いしたのねん!」
「「あばよっ!」」

 別れの言葉を口にした途端、同時に涙が溢れ、抱き合う天使と魔王。
「ベルフェ、長い間ありがとな! アタシ、たぶんこれまでで一番楽しい日々だった気がするよ! こんなぐぅたらな暮らし、天界じゃできないし!」
「わたしだってラファえもんに助けられたのねん! ラファえもんのはき古したパンツ、けっこういい値段で売れてたお!」
 ピタリ。動きを止めたラファエルが、ゆっくりと躰を離します。

「……初耳だぞそれ。ずっとやってたのか?」
「居候がなに言ってるのねん。おみゃ~のごはんはパンツで稼いでたんだお。“蘭奢待(らんじゃたい)”か“ラファぱん”かって、全国の大名や茶人にも大人気だお」
「このドグサレ魔王がああっっ!!」
 ラファエル怒りの光輪と、ベルフェゴールの電撃が激突!
 両者初めての本気攻撃は、威力相殺で終わりました。

「……本気出せばすごいって、まんざら嘘じゃないじゃん」
「わたしの本気はまだまだこんなもんじゃないお~」
「ぬかせ」
 改めて相手の目を見つめながら、節制の天使ラファエルと怠惰の魔王ベルフェゴールが同時に言い放ちました。
「「あばよっ!」」

 ことり。
 妙な音がしたほうを見た歌川国芳は、壁に貼っていたラファエルの肖像画が真っ白になり、その前にまるで絵から抜け出たように、“節制の天使像”が置かれているのを見つけました。

 天使と魔王がいなくなった江戸は、安政の大獄、桜田門外の変など血生臭い事件が頻発するようになり、日本各地でも武力衝突が続発。
 ついには大政奉還、王政復古の大号令をもって、二百六十年以上に亘った徳川幕府は終わりを告げました。
“徳川の守護神”と呼ばれたベルフェゴールは、江戸の天下泰平の世を護り抜いた、本当の守護者だったのかもしれません。

「はぁ~。今日も退屈で平和な世の中だったお~」


【了】

作品応援ボタン(1日1回)応援コメントを書く