第二章 長篠城に魔王現る 其の三
二日後、鳥居強右衛門が帰還しました。
寒狭川の対岸に、武田軍によって磔に処された姿で。
その日の早朝、徳川への援軍要請成功を知らせる烽火が雁峰山から上がった際は城内が沸き立ちましたが、それが武田軍の警戒を強めたのでしょう。
長篠城に戻ろうとするところを捕えられたのです。
強右衛門は武田の大将たる勝頼直々に「城内に援軍は来ないと言え。開城すれば将兵全員助命の上、お前も家臣として厚遇する」と言われ、それを承諾。
武田の兵に、城を見渡す丘の上へと引き出されました。
そこで一転、「じきに援軍が来るから辛抱せよ!」と叫んだため、激昂した武田軍がただちに磔にしたのです。
強右衛門の壮絶な最期は城兵を鼓舞し、武田勢すら彼の忠義を称えました。
ただ、奥平貞昌だけはベルフェゴールに喰ってかかりました。
「なぜ鳥居を助けなかった!? 契約成立と言うたではないか!?」
「キミは自分の言葉をちゃんと思い出すのねん。『使いの者を、無事に岡崎城まで送り届ける』。それがキミのお願いで、帰りのことは言ってないお」
「……わしの思慮が至らなかったばかりに、鳥居は死んだのか……」
「魔王との契約は、うまく使えば奇跡を起こせるけど、約束した以上のことは決してしないんだお。それを忘れちゃダメだお」
後悔と自責の念に駆られ、泣き崩れる貞昌。その後ろで、ベルフェゴールもそっと背を向けます。
「魔王は情けで動いちゃダメなんだお」
その二日後、織田徳川連合軍三万八千が長篠城より一里西の設楽原に到着。
倍以上の大軍によって逆包囲される虞が出てきた武田軍は、先制攻撃に出るか退却するか、いずれにせよ長篠城の包囲を解かざるを得なくなります。
ギリギリのところで長篠城は生き延びました。
夜半、織田信長が本陣を置いた茶臼山に、貞昌の姿がありました。
傍らには、城内にあった具足を適当に身に着けたベルフェゴールもいます。
貞昌が二つ目の契約として、「鬼神も交えて織田信長・徳川家康と今後の対策を詰めた後、ただちに長篠城に無事帰還する」ことを願ったのです。
信長と家康が並んで座る面前で、貞昌は左脚を立て、右脚は正坐で座る建膝で、揃えた右手の指先を地面に着ける貴人礼を取りました。
一方、横でぽけ~っと立ったままのベルフェゴールに小男が噛みつきます。
「痴れ者がッ!! 殿の前で頭が高いわッ!!」
壁がビリビリ震えるほど大きく甲高い怒声が、居並ぶ古強者たちの心胆をも寒からしめますが、ベルフェゴールは愛らしい笑顔を浮かべたままです。
「猿、むしろお前が控えよ。その者、ひとではない。何処かの神じゃ」
「しゅご~い。よくわかったねぇ~」
信長の言葉に、一同が改めてベルフェゴールを注視します。
「モアブの神バアル・ペオル。今は怠惰の魔王ベルフェゴールだお」
「魔王であるか。貞昌の書状によれば、その魔王の加護が長篠城を助けたそうじゃな。わしが頼めば、この信長にも合力してもらえるのか?」
「わたしは貞昌に呼び出されたから、貞昌のお願いしか聞かないお~」
信長を前にして、この優越感。貞昌はベルフェゴールから特別視されたことに喜び、城に帰ったらまた見抜きさせてもらおうと目論むのでした。
「ならば、わしが貞昌に伝え、それを魔王が叶えるのはどうじゃ?」
「わたしはい~けど、貞昌はど~するのん? 一つのお願いで一代だから、次に頼んだら、三代わたしを養うことになるお」
言われてみれば、既に己の生涯だけでなく、まだ見ぬ我が子の代まで契約に差し出しているだけに、貞昌も決断が鈍ります。
「貞昌、わしからも頼む。わしも奥平に、出来得る限り報いるゆえ」
主君・家康にまで言われては、貞昌も覚悟を決めるしかありません。
「よし。では貞昌、魔王にこう伝えよ。『長篠の戦で、織田信長に武田勢を撃ち破る必勝の策を授けよ』とな」
「とのことじゃが、閻魔様はお引き受けいただけるか……?」
「わかったお~」
「鉄砲の射程が一町でしょ~? まずは設楽原の、連吾川から一町離れたところに馬防柵を作るのねん。馬防柵で鉄砲を構えて、向こうが川を渡ったら撃てばいいからわかりやすいでしょ~。
設楽原に相手をおびき出すには、鳶ヶ巣山砦に奇襲をかけて、逃げ道をなくすんだお。ほいで向こうが突撃してきたら、鉄砲隊を三つに分けて、ばんばんば~んって三連射すれば、相手の腰も引けるのねん。その隙に次の弾を込めて、またばんばんば~んって撃つんだお。これで勝つるお!」
魔王の策に一同戸惑いを見せる中、信長だけがニヤリと笑いました。
【第二章其の四は9月14日更新予定です】